第46話:過去の足音


 かつて魔王を討ち、世界に平和をもたらした勇者の末裔が治める国がある。


 その歴史は、龍が初めて大地に影を落とした日よりもさらに古く、王家の血脈は神話と現実の狭間に深く根を張っていた。


 この国は自らを「世界の法と秩序の番人」と呼ぶ。その名に恥じぬよう、罪に対する姿勢は苛烈を極める。人を殺めれば死。そんなものは当然で、たとえ窃盗のような些細な罪であっても、容赦なく命を奪われる。拷問の有無に違いはあれど、辿り着く結末は常にひとつ。この国において「罪」とは、命をもってしか償えぬものなのだ。


 そんな国で、私は第3王女として生を受けた。


 だが――この夢は何を示そうとしているのだろう。天使の零落が映し出す光景は、私のどんな深層に触れようとしているのか。


 過去の過ちか。胸の奥に押し込めた欲望か。それとも、忘れたはずの罪か。


 いや、私は罪を忘れてなどいない。


 カレンを救えなかったあの日を、忘れられるはずがない。


 ならば、今見せられているのは……過ちか、それとも――欲望か。


 ミリアリアの意識が、黒髪黒目の少年へと重なるように溶け込み、彼女の能力が景色を浮かび上がらせる。



 それは、遠い日の情景だった。



 ――俺は背中に母の視線を感じていた。まるでその視線が、背中に重くのしかかる鎖のように感じられる。振り返らずとも、母がどれほどの想いをこの瞬間に託しているのか、痛いほどに伝わってくる。


 目の前には、黒鉄でできた巨大な門がそびえ立っていた。鈍く光を反射するその表面には、古代文字と神聖な紋章が刻まれており、ただの門でありながら、まるで生き物のような威圧感を放っている。門の左右には、白銀の甲冑に身を包んだ騎士が直立不動で控えていた。彼らの兜の奥からは、鋭い視線がこちらを射抜いている。足元には、深紅の絨毯が大理石の床に敷かれ、まるで血の川のように奥へと続いていた。


 この仰々しい空間に、俺が立っている理由は二つある。


 一つは、俺がエルドラード王国の辺境『アルヘッザル』を治める大貴族の家に生まれたこと。そしてもう一つは、今日が俺の『グレントリー』の日だからだ。


 グレントリー

 それは神が人に『ロール』という役割を授ける神聖な儀式。『剣士』や『商人』といった職業のようなものだが、それ以上に、その人間の生涯を決定づける烙印でもある。


 この世界に生きる者は、例外なく9歳の誕生日にグレントリーを受け、神の意志をその身に刻まれる。今まさに、俺の番が巡ってきたのだ。


「フェイ、緊張してない? 大丈夫?」


 母の声はかすかに震えていた。

 普段は毅然としている彼女が、今はまるで壊れ物を扱うように俺を見つめている。


「はい。問題ありません、母上」


 俺は静かに、しかし、はっきりと答えた。声に迷いはなかった。母の不安を打ち消すように、意識して平坦な口調を保つ。だが、その返答に目を見張ったのは母ではなく、門の左右に立つ騎士たちだった。


 彼らの視線が、わずかに揺れた。9歳の少年が、人生を左右する儀式を前にして微塵も動じていない。まるで、すでに結果を知っているかのような落ち着き。常人ならば膝が震えてもおかしくない場面で、俺はただ静かに立っていた。


「フェイ、流石、私たちの子ね」


 母の言葉は、誇らしさと安堵が入り混じったものだった。だが、俺に向けられる期待は、ただの親の誇りなどでは済まされない。俺が特別視される理由は三つある。


 一つ目は、俺が黒髪黒目で生まれたこと。この世界では極めて稀な特徴であり、かつて魔王を討った伝説の勇者が同じ容姿だったという逸話が、黒髪黒目を神聖視させている。平民であっても敬われるほどの象徴。それを持つ俺が、この血を引いているのだ。


 二つ目は、俺が武門の名家・アルヘッザル家の人間であること。エルドラード王国は勇者の末裔が治める国であり、武を尊ぶ気風が根強い。アルヘッザル家はその中でも特に名高く、歴代の当主や子孫は『剣聖』や『賢者』といった最上位のロールを授かってきた。俺の兄姉たちも皆、優れたロールを得ている。


 三つ目は、俺が『龍年』に生まれたこと。この年に生まれた子は、神に選ばれし者として、特別なロールを授かると信じられている。人々を罰するための年に神の祝福があるなどと考えるのは馬鹿馬鹿しい。


 これらすべてが重なった俺は、まるで『勇者の再来』のように語られていた。もし本当に勇者のロールを授かれば、アルヘッザル家の名声は天を突き、王位継承にすら影響を及ぼすだろう。いや、教会の権威すら覆すかもしれない。だからこそ、母も、王国も、そしてこの国の未来までもが、俺の肩に乗っているのだ。


「フェイ・アルヘッザル!」

「っ!?」


 思考の渦中、重厚な扉の向こうから司祭の声が響いた。心臓が一瞬だけ跳ねたが、すぐに平静を取り戻す。


「はい!」


 俺は胸の奥から声を張り上げた。騎士たちが無言で頷き、鉄の門を押し開く。軋む音が、空気を震わせる。


 その先に広がっていたのは、白亜の円形の大広間。天井は高く、光を受けて虹色に輝くステンドグラスが、神聖な空気を満たしていた。観客席には、王国の名だたる貴族たちが並び、静かにこちらを見下ろしている。彼らの視線は、好奇と期待と、わずかな畏れを孕んでいた。


 その中央、最上段には、父――グレン・アルヘッザルの姿があった。赤い鬣のような髪、鋼のような肉体。王国最強の剣聖と謳われる男の存在感は、遠くからでも圧倒的だった。


 女神像の前に立つ白衣の老人が、司祭だろう。彼の手には、まだ白紙の本が抱えられている。


「フェイ・アルヘッザル!前へ!」


「はっ!」


 俺は一歩一歩、絨毯の上を進む。足音が大理石に吸い込まれていく。女神像の前に辿り着くと、静かに膝を折り、両手を組み、目を閉じた。


「これより!フェイ・アルヘッザルのグレントリーを執り行う!」


 司祭の声が高らかに響く。俺は無言で頷いた。今からは、口を開くことも、目を開けることも許されない。暗闇の中、唯一聞こえるのは、自分の心臓の鼓動だけだった。規則正しく、しかし確かに速まっている。


 やがて、紙を捲る音が耳に届く。静寂の中で、その音はやけに大きく感じられた。白紙の本に、神の意志が刻まれる瞬間。だが、司祭の口からは、なかなか言葉が出てこない。


 沈黙が、空間を支配する。


「司祭カインドルよ。なぜ、フェイのロールを読み上げぬ」


 父の声が、雷鳴のように響いた。空気が震え、場の温度が一瞬で変わる。司祭の肩がびくりと揺れた。


「し、失礼しました」

「良い。早く読み上げよ」

「は、はっ!フェイ・アルヘッザル!貴殿は…」


 司祭の声が震える。何かを飲み込むように一瞬の間を置き、そして――


「貴殿のロールは、盗賊である!」


 その言葉が放たれた瞬間、空気が凍りついた。

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