第40話:鍋に宿るは…


 アニーは震える指先を必死に握りしめながら、勇者サキュウスと対峙していた。


 その姿は、まるで神話から抜け出したかのような威容。幾多の戦乱を終わらせ、民を救った英雄。世界中の人々がその名を讃え、彼の背中を追いかけて冒険者を志す者は後を絶たない。


 そんな存在と、今、自分が剣を交えようとしている――。

信じられない現実に、アニーの喉は乾き、心臓は耳元で鐘のように鳴り響いていた。


 だが、逃げるわけにはいかなかった。

 サキュウスの背後には、血に濡れた海賊服を纏い、膝をついて肩で息をするミリアリアの姿。

 少し離れた場所には、赤い肌をした鬼人族のオーグが、まるで大木が倒れたかのように横たわっている。

 その光景が、アニーの胸を締めつける。喉の奥が熱くなり、目元に涙が滲む。だが、彼女はそれを拭うことすらできなかった。


「…仲間を想う者を相手に、我は加減などせんぞ」


 サキュウスの声は低く、静かで、それでいて鋼のように硬かった。

 彼の手にあるのは、かつて神の祝福を受けた聖剣。今は光を失っているが、その刃は未だ鋭く、アニーの命を奪うには十分すぎるほどだった。


 アニーの喉がひゅっと鳴る。足がすくみ、声が出ない。だがその沈黙を破ったのは――


「あ、あの!」


 ケビンの声だった。

 頼りなげなその少年が、今は必死に叫んでいた。


「アニーさん!あの聖剣に…スキルが使えそうです!」


「へ?」


 思わず漏れたアニーの声は、かすれていた。

 ケビンの言葉に、場の空気が一瞬揺らぐ。サキュウスの眉がわずかに動き、警戒の色がその瞳に宿る。


「ば、馬鹿なこと言わないで、ケビン!」


 アニーの声は震えていたが、ケビンは真剣だった。

 その瞳には、確信と覚悟が宿っていた。


「ま、間違いないです。スキルが使えます!」


 その言葉に、メグーが静かにアニーを見つめる。

 銀の瞳が、まるで未来を見通すかのように揺れず、ただ一言。


「聖剣…あんなもの食べられるのかしら?」


 その突飛な発想に、アニーの心が一瞬だけ軽くなる。

 そして、彼女は小さく頷いた。


「や、やりましょう!」

「アニーさん、良いんですか?」

「は、はい!この場を切り抜けるには…もう…やるしかありません!」


 覚悟を決めたアニーの声は、か細くも確かな意志を帯びていた。

 3人は互いに頷き合い、運命を共にすることを誓う。


「覚悟を決めたようだな…来い!」


 サキュウスの叫びが、空気を震わせる。

 その瞬間――


「アニーさん!許可を!!」

「許可します!」


 アニーの声が響いた刹那、サキュウスの手元から「ポンッ」と軽い音が鳴り、白煙が一気に広がる。

 視界が奪われ、空気が一変する。


「む?」


 聖剣の感触が手から消えたことに気づいたサキュウスは、即座に後退する。


 ただの煙ではない。何かの術式が込められている――そう直感した。


 煙が晴れた先にあったのは、鍋。

 蓋の隙間から立ちのぼる湯気は、まるで神域の霧のように神秘的で、ただならぬ気配を放っていた。


「ま、まさか…」


 サキュウスの顔が青ざめる。

 鍋の中に宿る光――それは、かつて自らが握っていた聖剣の輝き。


 彼は理解した。あの鍋の中身が、聖剣そのものであることを。


「ば、馬鹿な!な、何だこれは!?何が、何が起きたのだ!?」


 混乱と絶望が、彼の理性を侵食していく。

 頬をつねっても、痛みは現実を否定しない。


「あ、ああ、あぁぁぁ、わ、私の…私の剣がぁ!!!」


 サキュウスは膝をつき、両手で頭を抱え、甲板に崩れ落ちた。


 その姿は、かつての英雄の面影を失い、ただの一人の男に過ぎなかった。


 その隙を、ミリアリアは見逃さない。

 血に濡れた剣を握りしめ、ふらつく足を無理やり前に出す。


「おっと!やらせないよー!」

「くっ!!」

「ふぅ…間一髪!」


 その剣先を、黒い扇子がぴたりと止めた。

 現れたのはユリ。黒装束は裂け、血に染まりながらも、その瞳は鋭く光っていた。


 空にいたはずの水龍の姿は消えていた。

 ユリとマリーが討ち果たしたのだろう。彼女たちの戦いの激しさが、その姿に刻まれていた。


「…マリーちゃん、ここは撤退!」


『そうね。サキュウス卿、申し訳ございませんが、失礼いたします』


 どこからともなく響く声と共に、サキュウスの姿が光と共に消える。


「それじゃー、またね!」


 ユリもまた、煙に包まれ、静かにその場を去っていった。


 残されたのは、半壊した船と、呆然と立ち尽くすミリアリア。帆柱は折れ、風を生んでいた魔石は砕け、船はただの残骸と化していた。


「ミリアリアさん!」

「アニーか」


 振り返ったミリアリアの顔には、疲労と安堵が入り混じっていた。


「無事ですか?」

「ああ、私もオーグも大事には至っていない。助かったぞ、アニー」

「い、い、いえ!」


 アニーは顔を赤らめ、視線を泳がせながらも、しっかりと立っていた。


「ケビン…それに、メグーも、お主らがいなければ私は倒されていただろう。感謝する」


 ミリアリアの声は、深い海の底から響くような重みを帯びていた。堂々としたその姿に似合わず、言葉の端にはかすかな安堵が滲んでいる。金色の髪が風に揺れ、蒼い瞳が静かに二人を見つめていた。


「そ、そんな!助けていただいたのは僕の方なので…」


 ケビンは慌てて手を振り、顔を赤らめながら言葉を返す。彼の声は震えていたが、その瞳には確かな決意が宿っていた。小柄な体を精一杯に張って、彼は自分の勇気を証明しようとしていた。


「ま、いいわ」


 メグーが小さく呟いた。年齢に似合わぬ落ち着いた声音が、場の空気を一瞬で引き締める。


「メグー?」


 ケビンが戸惑いを隠せずに問いかける。


「色々と問いただしたいところだけど…それはお母さんに任せるわ」


 その言葉と同時に、メグーの銀の瞳が静かにアニーを射抜いた。まるで心の奥底まで見透かすような、冷たくも優しい視線。彼女の美しさと神秘性が、その一瞬で場の空気を支配する。


 その視線に気づいたミリアリアも、ゆっくりとアニーに顔を向けた。海賊帽の影から覗く蒼い瞳が、まるで真実を見極めようとするかのように鋭く光る。


 そして、他の仲間たちも次第にアニーへと視線を移していく。まるで舞台のスポットライトのように、全員の視線が一人の少女に集中する。


「あ、あわわわ!」


 アニーは肩をすくめ、思わず一歩後ずさった。前髪の陰に隠れた瞳が揺れ、彼女の内心の動揺を物語っている。視線の重圧に押し潰されそうになりながらも、彼女は必死に言葉を探していた。


「アニー、お主は我に聞きたいことがあるのではないか?」


 ミリアリアの声は静かだったが、逃れられない力を帯びていた。まるで真実を語ることを促す審判のように。


「そ、それは…」


 アニーの胸の内には、渦巻く疑念と信頼がせめぎ合っていた。なぜ、勇者はミリアリアさんたちを狙うのか。聖剣の輝きは偽りではない。確かに、あの剣は彼女たちに反応していた。聖なる者の敵にしか、あの光は向けられないはずだ。


 でも、それなら…メグーちゃんも、敵ということになる。あの優しい瞳が?そんなこと、信じたくない。信じられない。


「…わ、私は…」


 声が震える。喉が詰まりそうになる。それでも、アニーは唇を噛みしめ、勇気を振り絞った。


「アニーさん…」


 ケビンの優しい声が、彼女の背中をそっと押す。


「みんなを…信じています!」


 その言葉は、か細くも確かな光のように、場の空気を貫いた。アニーの前髪の奥で、瞳がわずかに輝いたように見えた。

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