第3話:しんじゃうよーの合図
窓の外を流れていく雲の影を、私はぼんやりと見つめていた。陽の光を受けて刻々と形を変える雲は、まるで空の上を漂う夢のようだった。飛空艇の微かな振動が、足元からじんわりと伝わってくる。その心地よい揺れが、私の思考をゆっくりと溶かしていく。
この時間が、私は好きだった。
何も考えず、ただ景色に身を委ねるこのひとときが、私にとっての安らぎだった。空の青さに包まれ、雲の海を渡るこの旅路は、現実から切り離された、ほんの短い夢のような時間。
空を旅している。
それだけで、私は今、自分が冒険の真っ只中にいるのだと、胸の奥から実感できた。
「……もう、これが最後かな」
ぽつりと漏れた言葉は、誰に向けたものでもなかった。けれど、その響きは自分の心に深く突き刺さる。胸の奥に、ひとつの確信めいた予感があった。
クーベの街に着いたら、きっと終わる。
私の冒険は、そこで幕を下ろすのだ。
あの飛空艇は、無理をして借金までして手に入れたものだった。もう一度、こんな旅をする余裕なんて、私にはない。地上に戻れば、また薬草を育てるだけの、静かで平凡な日々が待っている。
穏やかで、平和で、でも、どこか物足りない日常。
私は、そこで人生を終えるのだろう。
「……」
ゆっくりと流れる時間が、まるで夢の終わりを告げる鐘の音のように、胸を締めつけた。名残惜しさと、抗えない運命への諦念が、心の奥で静かに渦を巻いていた。
――そのときだった。
「……グルルル……」
低く、喉の奥から絞り出すような唸り声が、隣の部屋から微かに聞こえた。
「は……!?しゅ…襲撃……?」
心臓が跳ね上がる。思わず声が裏返った。
魔物――。
空にも、奴らはいる。あの唸り声は、聞いたことのない種類だったが、確かにそれは、危険の匂いを孕んでいた。
私は無言で腰の短剣に手を伸ばした。冷たい金属の感触が、指先に現実を突きつける。
ミリアリアさんとフェイさんには、部屋から出るなと厳命されていた。だが、今はそれどころではない。
もし本当に魔物なら、まずはその姿を確認し、二人に知らせなければ。
戦うつもりはない。けれど、見過ごすわけにもいかない。
私は息を殺し、そっと扉を開け、隣の部屋の前に立った。
「……」
再び、扉の向こうから、低く唸るような音が聞こえる。
間違いない。中に、何かがいる。
私は踵を返し、急いで報告に向かおうとした。
――その瞬間。
「……ごはん?」
「ひぃえぇ!??」
音もなく開いた扉の向こうから現れたのは、銀色の髪を揺らす、小さな少女だった。まるで月光を編んだような髪、無垢な瞳。私はその姿に驚き、思わず尻餅をついてしまった。
「……女……の子?」
「おかあさん?」
少女は無表情のまま、私をじっと見つめ、首をかしげた。その仕草は、まるで人形のように整っていて、現実感がなかった。だが、よく見ると、彼女の瞳の奥には、どこか人間離れした光が宿っていた。まるで星の瞬きを閉じ込めたような、冷たくも美しい輝き。
「え?」
「おかあさん?」
再び、少女は私を指差し、同じ言葉を繰り返す。その声は澄んでいて、どこか機械的ですらあった。まるで、誰かに教えられた言葉をなぞっているような──そんな違和感が、胸の奥に引っかかる。
「わ、私はアニー、お…おか……お母さんじゃないよ」
「アニー、おかあさんはアニー」
「だ…だから…あのね…私は貴方のお母さんじゃないよ」
「おかあさん。わたし、メグー」
名乗った少女――メグー。その名と共に、彼女の存在がこの現実に根を下ろしたような気がした。
私は彼女の背後に目をやったが、部屋の中に魔物の気配はない。荒らされた様子もなく、ただ静寂が広がっていた。
「メグーちゃん?」
「そう、わたし、メグー」
その声は、どこか遠くから響いてくるようで、現実と夢の境界が曖昧になる。
「……あの、メグーちゃん」
「なに?」
「さっき、魔物の声が聞こえなかった?」
「まもののこえ?」
再び、首をかしげるメグー。
そのとき――
ぐるるるる……
「っ!?」
今度ははっきりと聞こえた。あの唸り声。だが、音の出所は――彼女のお腹だった。
「ま、魔物……!?」
私は反射的に短剣を抜き、彼女に向けて構えた。
「わたし、まものじゃないよ」
メグーは首を横に振った。その表情は変わらず、まるで短剣の存在すら意に介していないようだった。
私の手が震える。
目の前にいるのは、ただの小さな女の子──のはずなのに。
それでも、私は彼女に刃を向けた。
「……っ」
胸の奥が、じわりと痛んだ。
もし、あのまま彼女を傷つけていたら?
その想像が、喉の奥を締めつける。
「ご、ごめんね、メグーちゃん……」
私は短剣を鞘に収め、深く頭を下げた。
彼女の無垢な瞳が、何も責めずに私を見つめているのが、かえってつらかった。
「ううん」
メグーちゃんは、きょとんとしたまま首を小さく振った。
「おなかの……音?」
「うん。メグーは、ごはんを食べないとしんじゃうびょうきなの。これは“しんじゃうよー”っていうあいず」
「あ、合図……」
そのとき、通路の奥から足音が響いた。
「アニーさん!メグー!?」
黒髪黒目のフェイさんと、金髪のミリアリアさんが駆け寄ってくる。彼らの姿を見た瞬間、私は安堵と同時に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
「……部屋から出ないでと言ったよね?」
フェイさんの冷たい瞳が私を射抜く。右手がゆっくりと上がり、私に向けられる。
「約束を破ったこと、謝ります…」
私は震える声で謝罪した。だが、フェイさんの手は止まらない。
「記憶を……」
その言葉を遮るように、ミリアリアさんが静かに彼の腕を下ろさせた。
「彼女を廃人にするつもりか」
「……しかし」
「まぁ、待て、フェイ。事を急くのはお前の悪い癖だぞ」
ミリアリアさんの言葉に、フェイさんは不服そうに眉をひそめたが、従うように手を下ろした。
「さて、アニー殿」
「は、はい」
「まずは……その物騒なものをしまっていただこう」
「……!」
我に返った私は、慌てて短剣を鞘に収めた。
「ご…ごめんね……メグーちゃん」
「ううん」
メグーちゃんは、きょとんとしたまま首を小さく振った。やはり、短剣を向けられたことを、まるで気にしていないようだった。
それが、かえって胸に刺さる。
私は、彼女を守るどころか、恐怖に駆られて刃を向けた。
彼女が人間かどうかなんて関係ない。ただ、目の前の小さな命に、私は……。
「……部屋から出ないように、それをアニーさんは了解した。それにも関わらず、どうして、アニーさんはここにいるのかな?」
フェイさんは笑顔のまま、冷たい声で問いかけてくる。その静かな怒りが、ひしひしと伝わってきた。
「…えっと…その、え……ええっと、ですね…ま…魔物がいるかと思って…その」
「魔物?」
私の言葉に、ミリアリアさんとフェイは顔を見合せる。
「しんじゃうよーのあいず」
メグーの言葉に、フェイさんは怪訝そうに彼女の言葉を復唱する。
「合図?」
「うん。ぐるるるって!」
「なるほどのう。あれは、魔物の唸り声に聞こえると言えば聞こえる」
ミリアリアさんがくすりと笑い、肩をすくめた。
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