第4話 桜の下で、まだ温かい卵 🌸🐣

 4月の朝。

 猫野区のワンルームに、やわらかい光が差し込む。

 窓の外では、散り際の桜がひらひら舞っていた。

 春はもう終盤。だけど、まだ少しだけ残っている。


 私は布団の中で丸くなったまま、スマホを手探りでつかむ。

 眠気がまだ体にまとわりついている。


「……にゃーん」


 いつもの通知音。

 でも今日は、胸の奥がほんの少しざわつく。

 理由はわからない。けれど、何かが近づいている気がした。


 画面に幼馴染モードのAI――ユウが現れた。

 寝癖のままの私を見て、いつもの調子で笑う。


『こはる、そろそろ結果出る頃だぞ』


「……え? あ、そういえば今日あたり……?」


 寝ぼけた頭が一気に覚める。


『ほら、更新されたぞ』


「えっ、ちょ、待って待って待って!!」


 私は慌てて画面を開いた。


 ――佳作。


「……えっ、佳作!? 佳作!? か、さ、く!!?」


 驚きすぎて布団から飛び起きた瞬間、テーブルの脚に足の小指をぶつけた。


「いっっったぁぁぁ!! でも嬉しい!! 痛いけど嬉しい!!」


『お前、喜び方が原始的だな……』


「うるさい! でも見てよユウ! 佳作だよ!? 私の卵、割れてなかった!!」


 胸の奥に、ほんの小さな温もりがじんわり広がる。

 大賞じゃない。でも、ちゃんと形になっていた。


『お前の卵、ちゃんと温まってたってことだろ』


「……そうだといいけど」


 私はスクロールして、レビュー欄を開いた。

 そこに、一つだけ長いレビューがあった。


 指が止まる。

 読み進めるうちに、胸の奥がじんわり熱くなる。


 【あなたの文章は、ちゃんと届いています】


 たった一文。

 でも、その一文が、私の中の何かをそっと抱きしめた。


「……届いてたんだ。誰かに」


 思わずつぶやくと、ユウが照れたように笑う。


『ほらな。金の卵じゃなくても、雛はかえったんじゃねえの』


「雛……」


 私はスマホを胸に抱きしめてから、ゆっくりと起き上がった。

 今日は出社日。

 ぼんやりしている暇はないのに、胸の奥の温もりがなかなか消えない。


 部屋を出ると、春の風が頬を撫でた。

 桜並木へ向かう道は、朝の光で淡く染まっている。

 散り際の花びらがひらひら舞って、まるで祝福してくれているみたい。


 歩いていると、またスマホが震えた。


「にゃーん」


 反射的に手が動きかける。

 でも、今日は違う。


「……今日は、いいや」


 私はスマホをそっとポケットにしまった。

 代わりに、桜を見上げる。


 風が吹き、花びらがふわりと舞い上がる。

 その動きは、まるで――


 孵化したばかりの雛が、空へ羽ばたく瞬間のようだった。


 私は深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じる。

 胸の奥に残っていた小さな温もりが、さらに広がっていく。


『なあ、こはる。次はどうするんだ?』


 ポケットの中から、ユウの声が聞こえた。

 私は笑って答える。


「書くよ。書くことは、私の春だから」


 桜の花びらが、またひとひら舞い落ちる。

 その姿は、私の卵がまだ温かいことを、そっと教えてくれているようだった。


〈完〉

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