第37話 聖女の光よりもあたたかいもの #シエラ視点
ヴォルガードの逞しい腕に支えられながら、静まり返った廊下をゆっくりと進む。
先ほど、娘から浴びせられた「お父様の馬鹿」という魂の叫びが、今もなお、この廊下の空気を微かに震わせているような気がした。
「……情けないわね。娘に、あんなことまで言わせてしまうなんて」
ぽつりと零した私の言葉に、隣を歩く夫は、まるで岩の彫像のように口を真一文字に結んだまま、何も答えない。
ただ、私を支えるその手のひらから、隠しようのない動揺だけが、じわりと伝わってくる。
「……母親失格ね。私」
「……そんなことはない」
ようやく絞り出された彼の声は、ひどく低く、どこか掠れていた。
「エルゼは、変わったわ……いいえ、あの子なりに必死に変わろうとしている」
「これまで、私たちはあの子に、どれほどの無理を強いてきたのかしら。悪い噂を聞くたびに、『そんな子ではないはず』と自分に言い聞かせながら……どこかで、見て見ぬふりをしていた。あの子が一番苦しんでいるときに、母でありながら、背を向けてばかりだったわ」
メイドからの報告。
貴族たちの噂話。
エルゼの名が上がるとき、そこにあったのは、いつも決まって良くない話ばかりだった。
「私は、リリアーヌとエルゼを比べたことなんて一度もないわ。でも……あの子からすれば、自分はずっと、従姉妹より劣った娘だと、思わされていたのかもしれない」
「……エルゼを劣った娘などと思ったことは、一度もない」
ヴォルガードが、断じるように言った。
その声には、冷酷な公爵としてではなく、不器用な一人の父親としての、偽りのない真実が宿っていた。
「ふふ……知っているわ」
私は小さく微笑む。
「けれどね、ヴォルガード。想いは、伝わらなければ……受け取った側にとっては、真実にならないの。私たちがもっと、言葉と態度で愛を注げていたなら……あの子が、リリアーヌにあんなにも強く当たることは、なかったのかもしれない」
少しだけ視線を上げ、彼を見つめる。
「……あなた、リリアーヌにはよくお菓子を渡すけれど、エルゼには一度も渡さないでしょう?」
その言葉に、夫はぴたりと足を止めた。
そして、意外なほど困惑した表情で、私を見下ろす。
「……あの子は、菓子を嫌うだろう」
「……えっ?」
「昔、メイドから渡された菓子を『いらない』と床に投げ捨てている姿を見た。だから……わざわざ嫌いなものを渡して、不快にさせる必要もあるまいと……」
「……ふふ、ふふふふっ!」
堪えきれず、笑いが零れた。
彼があまりにも真面目な顔で、とんでもない勘違いを抱え続けていたのが、可笑しくて、愛おしくて。
「何を笑っている……」
「ねえ、ヴォルガード。あなたはちゃんとあの子を見ているし、愛しているわ。でもね……見るだけじゃ、足りないの」
私は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「目を見て、話して、言葉を交わさなくては。話さなくても伝わるなんて……私は、そうは思わないわ」
戦場にいた頃から変わらない、その寡黙さ。
それは彼の美徳だけれど――今は、一人の父として、破るべき殻だった。
「……シエラ」
「なにかしら?」
寝室の扉の前で、ヴォルガードは私を支える力を、少しだけ強めた。
迷うように視線を彷徨わせ、やがて、絞り出すように――それでも真っ直ぐに、私を見て告げる。
「……先程は、すまなかった。傷つけたかったわけではなかった……ただ……」
「ええ。分かっているわ。伝わっているわよ」
私は、静かに促す。
「でもね、ヴォルガード。ちゃんと言葉にしてほしいの」
彼は、魂を削るような深い溜息を吐いた。
「……心配だったんだ。最近は、お前の顔色も良くて……こうして並んで歩けることが、嬉しくて。だから……また聖女の力で床に伏すお前を、見たくなかった。……失うのが怖かっただけだ」
公爵ヴォルガード・ヴァレンティ。
アルストラグ騎士団団長と恐れられるこの男が、たった一人の女性の体調に、これほどまでに怯えている。
それは、あまりにも不器用で、まっすぐな愛だった。
「……ありがとう、ヴォルガード。嬉しいわ」
私は彼の手を取り、その甲に、そっと唇を寄せる。
「さあ、そうと決まれば……あとで一緒に甘いお菓子を持って、エルゼに謝りに行きましょう。あの子、本当は甘いものが大好きなんですもの。きっと……あなたから贈られたお菓子なら、どんな高級品よりも喜ぶわ」
夫は、まるで子供のように、決まり悪そうに小さく頷いた。
今夜、この家の冷たい石畳を溶かしたのは、
聖女の光ではない。
――一人の少女の、熱い叫びだったのだ。
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