「君といると世界が狭い」と不良に走った彼女。俺の自作ノートで維持していた成績が暴落し、指定校推薦が消えてももう遅い。俺は才媛と難関大へ行く

@flameflame

第一話 崩れる三脚

放課後を告げるチャイムの音が、けだるい午後の空気を切り裂くように鳴り響いた。

教師が「号令」と短く告げ、委員長が立ち上がる。儀礼的な挨拶が終わるや否や、教室は一気に喧騒に包まれた。


進学校であるこの県立高校では、三年生の今の時期ともなれば、教室に残る空気は二極化する。受験戦争に向けてピリピリとした空気を纏う一般受験組と、部活引退までの残り少ない時間を惜しむ者たち、あるいは早々に進路が決まりかけている推薦狙いの層だ。


俺、相沢湊(あいざわ みなと)は、教科書や参考書を手際よく鞄に詰め込みながら、一つ前の席に座る女子生徒の背中を見つめていた。

吉岡玲奈(よしおか れな)。

一年生の頃から付き合っている俺の恋人であり、肩まで伸びた茶色の髪を緩く巻いた、クラスでも目立つ華やかな容姿の持ち主だ。


「玲奈、お疲れ。これ、昨日の夜にまとめておいた世界史の要点ノート。次の小テスト、ここから八割は出ると思うよ」


俺は鞄から一冊のキャンパスノートを取り出し、玲奈の机に置いた。

表紙には『世界史B・近代欧州史攻略』とマジックで記してある。市販の参考書ではない。俺が玲奈のために、過去五年分の定期テストと小テストの傾向を分析し、彼女の苦手なカタカナ用語を語呂合わせ付きで解説した、完全オリジナルの自作ノートだ。


しかし、玲奈の反応は鈍かった。

彼女はスマートフォンをいじったまま、視線だけをチラリとノートに向けただけだった。


「あー、うん。ありがと。置いといて」


画面の中のSNSか何かに夢中になっているのか、生返事とともに指先だけが忙しなく動いている。

以前の玲奈なら、「すごい! 湊ありがとう! これで助かる!」と抱き着かんばかりに喜んでくれたはずだった。けれど、ここ数週間、彼女の態度は明らかに冷ややかだ。


「あと、今日の放課後だけどさ。図書室で英語の長文読解やろうか。この前の模試、長文で失点してたからコツ教えるよ」


俺が提案すると、玲奈はようやくスマホから顔を上げ、あからさまに不満そうな表情で眉をひそめた。


「えー、また勉強? 昨日もやったじゃん」

「昨日は数学だっただろ? 英語は積み重ねが大事だし、指定校推薦の校内選考まであと少しなんだ。今が正念場だよ、玲奈」


そう、玲奈は現在、難関私大として知られるK大学の指定校推薦枠を狙っていた。

本来の彼女の学力では到底届かない大学だ。一年生の頃、赤点続きで留年すら危ぶまれていた彼女を見かねて、俺が勉強を教え始めたのがきっかけだった。

俺は学年でもトップクラスの成績を維持しているが、他人に教えるというのは自分の復習にもなる。そう合理的に考えて始めたことだったが、付き合い始めてからは、彼女の未来を自分のことのように考えるようになっていた。


俺が睡眠時間を削って作った予想問題、徹底的に効率化された暗記カード、そして放課後のマンツーマン指導。

その「二人三脚」の結果、玲奈の評定平均は奇跡的なV字回復を見せ、なんと校内選考の候補者にまで名を連ねるようになったのだ。


「分かってるけどさぁ……」


玲奈は長く息を吐き出し、苛立たしげに髪をかき上げた。


「湊ってさ、いっつも勉強、勉強、効率、効率って、そればっかりだよね。息詰まるんだけど」

「玲奈のためを思って言ってるんだよ。推薦が決まれば、あとは楽になるんだから」

「その『ためを思って』ってのが重いの。……今日は無理。パス」


彼女はそう言い捨てると、俺が置いたノートを雑に鞄に押し込み、立ち上がった。


「え、どこ行くの? 今日は部活ないはずだろ?」

「友達と約束あるから。じゃあね」


俺の問いかけを遮るように、玲奈は足早に教室を出て行ってしまった。

廊下で待っていた派手なグループの女子たちと合流し、「やっと解放されたー、マジだるい」というような声が遠ざかっていく。


残された俺は、行き場のない手を宙に彷徨わせたあと、ゆっくりと下ろした。

胸の奥に、黒い澱のようなものが溜まっていくのを感じる。

最近、こういうことが増えていた。

俺が必死になればなるほど、玲奈は俺を疎ましく思うようになっている気がする。だが、ここで手を抜くわけにはいかない。指定校推薦の枠は限られている。少しでも成績が落ちれば、今までの努力は水の泡だ。


「……仕方ない。今日の分の対策プリント、また家で作っておくか」


俺は自分にそう言い聞かせ、誰もいなくなった玲奈の机を一瞥してから、重たい足取りで教室を後にした。


***


図書室で自分の受験勉強をこなし、玲奈のための新しい英語プリントを作成し終えた頃には、すっかり日が落ちていた。

時刻は十九時を回っている。

初夏の風は夜になると少し肌寒く、俺はシャツの袖をまくり直しながら駅へと向かう道を歩いていた。


(玲奈、ちゃんと家に帰ってるかな……)


メッセージアプリを開いてみるが、玲奈からの返信はない。「既読」すらついていなかった。

友達と遊ぶと言っていたが、こんな時間まで連れ回されているのだろうか。受験生にとって貴重な時間を浪費していることに焦りを感じないのだろうか。

そんな保護者のような思考回路になってしまう自分自身にも、俺は少しうんざりしていた。

好きだから尽くしているはずなのに、いつの間にか「管理者」と「被管理者」のような関係になってしまっている。


駅前の繁華街は、仕事帰りのサラリーマンや学生たちで賑わっていた。

ネオンの光がアスファルトを濡らすように輝き、様々な店の呼び込みの声が響いている。

俺は雑踏を避けようと、一本裏手の道へ入ろうとした。


その時だった。

ゲームセンターの入り口付近で、見覚えのある後ろ姿が目に入った。


「……玲奈?」


見間違えるはずがない。今日、彼女が学校に着てきていたカーディガン。そして、肩から下げている鞄には、俺とお揃いで買ったキーホルダーが揺れている。

だが、俺の足が止まったのは、彼女がそこにいたからではない。

彼女の腰に、男の手が回されていたからだ。


思考が真っ白になった。

隣にいる男は、うちの学校の生徒ではない。

派手に脱色した金髪、耳にはいくつものピアス、制服のシャツをだらしなく着崩し、首元にはシルバーのネックレスが光っている。

一目見て「不良」と分かる風貌の男だ。

たしか、近隣にある底辺校として有名な高校の制服だったはずだ。


「うっそ、マジで? 超ウケるんだけどー!」


玲奈の甲高い笑い声が聞こえた。

教室では最近見せなくなった、心からの笑顔。

彼女は男の胸板に体を預け、男の手は彼女の腰を撫で回している。あまりにも自然で、あまりにも親密な距離感だった。


俺の心臓が早鐘を打ち始める。

見間違いであってくれ。友達と遊ぶって言ってたじゃないか。これは何かの間違いで、ただの知り合いで……。

だが、次の瞬間、その淡い期待は粉々に砕け散った。


男が玲奈の顎を指で持ち上げ、人目も憚らずに唇を重ねたのだ。

玲奈は拒むどころか、自分から男の首に腕を回し、熱烈に応えている。


血液が逆流するような感覚。

俺は無意識のうちに駆け出していた。


「玲奈!」


裏返った声で名前を呼ぶ。

二人の唇が離れ、驚いたようにこちらを振り向いた。

街灯の逆光の中、玲奈の顔が強張るのが見えた。


「……湊」


バツが悪そうな顔をするかと思った。

あるいは、言い訳を並べ立てて泣き出すかと思った。

だが、玲奈の表情に浮かんでいたのは、予想外のものだった。

「あーあ、バレちゃったか」という、諦めと開き直りが混ざったような、冷めた眼差し。


「お前、何して……そいつ、誰だよ」


震える声で問う俺を、隣にいた金髪の男が値踏みするように見下ろしてきた。

男はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、玲奈の肩を抱き寄せながら俺を指差す。


「あ? なんだこの真面目くん。もしかして、玲奈ちゃんが言ってた『ガリ勉彼氏』ってやつ?」

「……翔くん、やめてよ。可哀想じゃん」


玲奈がクスクスと笑う。

その言葉の響きに、俺は耳を疑った。

ガリ勉彼氏? 可哀想?

俺が今まで、どれだけ彼女のために時間を費やしてきたと思っているんだ。


「玲奈、どういうことだ説明してくれ。友達と約束があるって、こいつのことだったのか? 俺との勉強を断って、こんな奴と……」

「『こんな奴』って言い方はねーだろ、優等生クン」


男――翔と呼ばれた男が、威圧的に一歩前に出る。

だが、それを制するように玲奈が口を開いた。


「湊。もういいよ」


彼女の声は、氷のように冷たかった。


「もういいって、何が……」

「あんたとの付き合い、もう終わりにしたいって言ってんの」


玲奈は深い溜め息をつき、まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるように言葉を続けた。


「正直さ、湊といてもつまんないんだよね。毎日毎日、勉強しろ、単語覚えろ、課題やったか……。あんた、私の彼氏なの? それとも家庭教師かなんかなの?」

「それは……お前がK大に行きたいって言うから! お前一人じゃ無理だから、俺が協力してやってたんだろ!」

「頼んでないし。勝手に湊がやってただけじゃん」


突き放すような一言に、言葉が詰まる。

頼んでない?

「湊のおかげで助かった」「湊がいないと私ダメだもん」。そう言って俺に甘えていたのは誰だ。


「それにね、湊といると世界が狭くなるの。学校と図書館と家の往復。そんなの青春じゃないでしょ? 翔くんは違うよ。私の知らない遊び場教えてくれるし、いろんな人紹介してくれるし、刺激的で楽しいの」


玲奈は翔の腕にすり寄り、うっとりとした表情で見上げた。

翔は勝ち誇ったような顔で、俺を見下しながら玲奈の頭を撫でている。


「俺たちが住んでる世界が違うんだよ、優等生。お前みたいな堅物は、参考書と恋愛してな」

「そういうこと。だから、もう私の前に顔出さないでくれる? 邪魔だから」


玲奈の言葉は、鋭利な刃物のように俺の心を切り裂いた。

怒り、悲しみ、惨めさ。様々な感情が渦巻く中で、俺は震える手で鞄を握りしめた。

鞄の中には、今日も彼女のために作った英語のプリントが入っている。

そして、さっき渡した世界史のノートも、彼女の鞄の中に入っているはずだ。

俺のここ数年の青春は、すべて彼女の成績を上げるために捧げられていたと言っても過言ではない。


「……本気で言ってるのか?」

「本気だよ。あ、そうだ」


玲奈は何かを思い出したように、自分の鞄を開けた。

そして、俺が渡したばかりの『世界史B・近代欧州史攻略』ノートを取り出すと、ゴミでも見るような目でそれを見つめた。


「これ、もういらないから返すね。重いし」


バサッ。

ノートがアスファルトに投げ捨てられた。

乾いた音がして、表紙が少し汚れる。

俺が何晩も徹夜して、彼女が覚えやすいようにイラストまで描いてまとめたノートが、足元に転がっている。


「推薦の校内選考はもうほぼ決まりだし、あとは適当にやっても受かるでしょ。湊がいなくても、私には『指定校推薦』っていう最強の武器があるしね」


玲奈は悪びれもせず、残酷なほど無邪気に言い放った。


「あんたのその恩着せがましいサポート、もう用済みってこと。分かった?」


翔が「きっつー、玲奈ちゃん容赦ねーな」と笑い声を上げる。

二人は俺に背を向け、繁華街の光の中へと歩き出した。

玲奈は一度も振り返らなかった。


俺は呆然と立ち尽くしたまま、二人の背中が見えなくなるまで動くことができなかった。

足元のノートを拾い上げる気力すら湧かない。


ただ、心の中で何かが「プツン」と音を立てて切れるのを感じた。


愛していた。

彼女の笑顔が見たかった。

彼女の夢を叶えてやりたかった。

二人の未来のために、今は苦しくても頑張ろうと思っていた。


だが、それはすべて俺の独りよがりだったらしい。

彼女にとって俺は、ただの便利な「踏み台」でしかなかったのだ。

推薦という切符を手に入れた途端、用済みとして廃棄される、ただの道具。


「……そうか」


乾いた声が漏れた。

不思議と、涙は出なかった。

代わりに、冷たく重い、鉛のような感情が腹の底に沈殿していく。


『世界が狭くなる』

『用済み』


彼女の言葉が、呪いのようにリフレインする。

俺はゆっくりとしゃがみ込み、泥にまみれたノートを拾い上げた。

パラパラとページをめくる。

赤ペンで書かれた解説、彼女を励ますために書いた「Fight!」という文字。

それらすべてが、今の俺には滑稽なピエロの落書きのように見えた。


「……分かったよ、玲奈」


俺はノートを閉じた。

その瞬間、俺の中にあった吉岡玲奈への愛情という名の灯火が、完全に消え失せた。


「お前がそこまで言うなら、もう何もしない。俺の『狭い世界』から、お前を解放してやるよ」


俺は近くにあったゴミ箱へ、迷うことなくそのノートを放り込んだ。

ドサリ、と鈍い音がして、俺の努力の結晶はゴミの山に埋もれた。


胸に残るのは、虚無感。

そして、自分の愚かさに対する激しい怒り。

だが同時に、奇妙なほどの解放感も感じていた。


もう、誰かのために自分の時間を削る必要はない。

バカな女の機嫌を取り、勉強を教え、介護のような真似をする日々は終わったのだ。


「これからは、自分のためだけに生きる」


俺は夜空を見上げた。

都会の空は明るすぎて星は見えないが、空気は澄んでいるように感じられた。

明日からは、俺本来のペースで歩ける。

足枷は外れたのだ。


俺は踵を返し、駅への道を歩き出した。

その足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。

だが、その瞳にはもう、かつてのような優しさの光は宿っていなかった。


これが、俺と彼女の終わりの始まりだった。

そして、彼女が自ら手放したものがどれほど大きかったのかを、彼女自身が思い知ることになる序章でもあった。

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