桜ってきれいだよね

ある夜、さゆりはふわふわと宙を漂っていた。風に流されるでもなく、目的もなく、ただ気分のままに身を委ねていた。

すると、揺らめくように咲く一本の桜の木が、ぽつりと現れた。


辺りはすっかり闇に包まれているのに、その中でひときわ淡く、柔らかな光をまとったそれは一本の桜の木だった。そして、不自然なほど鮮やかに浮かび上がっていた。


淡い光が滲むように咲くその姿に、さゆりは興味を引かれた。


「……ん、なんか騒がしい?」


近づいてみると、そこは廃れた神社の境内だった。朽ちかけた鳥居、崩れかけの社。だが、その寂れた空間には不釣り合いなほどのにぎわいがあった。


動物霊やら得体の知れない怪異やらが集まり、輪になって夜桜の下で楽しげに談笑している。吊るされた提灯のような灯りが、ほんのり辺りを照らしていた。


「わ、いいな……お花見してるのかな」


賑わいの輪から少し離れたところに、ぽつんと立っていた子供の霊に声をかけてみる。


「ねえ、何してるの?」


「お花見だよ!」


元気に返ってきた答えに、さゆりも笑顔になる。


「そっか、やっぱり。七分咲きってところかな? 明日には満開になりそうだね」


 そう言うと、子供の霊はふいに真顔になって言った。


「でもね、満開の桜は見ちゃダメなんだって。見たら――いなくなっちゃうんだよ」


「えっ? どうして?」


「わかんない。ダメなものはダメなんだって」


それだけ言うと、子供はひらりと笑って、輪の中へと走り去っていった。

その小さな背中を見送りながら、さゆりは首を傾げる。


(……なんか、理由があるのかな。どんな理由なんだろ?)


好奇心が胸の奥からじわりと湧き上がってくる。


「明日は来るなよ」


背後から少し鼻にかかったような声が響いた。振り返ると、そこには二本のふさふさした尻尾をゆらゆら揺らす猫又がいた。


「あ、こんばんは。――って、なんで?」


「満開の桜に魅入られたら、命も魂も吸われちまう。幽霊のお前さんだって消えちまうぞ」


「へえ……そっか。じゃあ、気をつけないとね」


そう言いながら、さゆりはそっと手を伸ばす。


「触るなっ!」


風を裂くような音とともに、彼女の手はぴしゃりと払い落とされた。


「むー……せっかくにゃんこに触れると思ったのに」


頬をふくらませてさゆりがむくれると、猫又は耳を伏せてて怒鳴る。


「にゃんこって言うな!」


「はーい……」


軽く手を上げて誤魔化しつつも、さゆりはなおも桜を見上げていた。


「明日もお花見するの?」


「やらん。満開の桜に魅入られたら、この世から消えてしまうからな」


「そこが分からないんだよね。桜を見るだけで何かが起きるの?」


「真実を知るのは消えた本人だけだ」


猫又は、何かを思い出すように、視線を桜の木に移した。


「昔は毎年、誰かが桜の木の下で死んでたな。そのせいで人間たちは気味悪がって近寄らんようになった。その結果、神社もこの有様よ」


「へぇ、そうなんだ」


猫又が視線を外して油断した瞬間――


「ていっ!」


さゆりの両手が猫又のしっぽのそれぞれを握っていた。


「こらっ! やめんか!」


猫又が怒鳴った。全身の毛が逆立ち、目をつり上げている。


「あはははは。にゃんこが怒ったー」


ふわりと浮いて腹を抱えて大笑い。

その様子は怒られたことすら楽しそうだった。


ひとしきり笑って――


「ごめんね」


とびきりの笑顔を見せた。


「まったく……二度とするな! にゃんことも呼ぶな!」


風に煽られた一枚の桜の花びらが軽やかに舞う。

さゆりはそれを受け取るように手を出した――けれど、花びらはさゆりに触れることなく、手をすり抜けていった。


浮遊霊であるさゆりにとっては、いつものことだった。

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