第30話 微睡の夜の中で

 どこからか聞こえてくる咆哮に、真帆は目を覚ます。

 隣を見れば鳥羽は静かに寝息をたてて眠っている。やはり謎の咆哮は自分にしか聞こえていないようだ。

 彼を起こさぬように起き上がり、裸足のままテントから出る。

 

 陽は登っておらず、雲のかかった月が星空に浮かんでいる。山は薄暗い霧に囲まれて、空気はひんやりと冷たかった。

 何かに導かれるかのように水辺に足をつける。指先から感じる、全身が冷え上がるような秋の湖。真帆は小さく息を吐いた。

 

 (歩ける)

 

 なぜか確信した。

 そっと足を踏み出し、一歩、また一歩と水面を歩くのだ。少年は地を裸足で踏むがごとく、波紋も広げながら水上を歩く。

 湖の中心には、霧に覆われた大きな黒い影がひとつ。真帆はそれに向かって歩いていた。

 

 (呼ばれている)

 

 そう表現するしかない。「行かなければいけない」と感じているのだ。それは真帆の意思なのか、それとも別のなにか──

 近づくに連れて影の輪郭がハッキリしてきた。巨大なショベルカーのようで、全身には鉛色の鱗、大きな翼、長く太い尾。

 それは──

 

「……ドラゴンだ」

 

 顔を上げてドラゴンを眺めていると、そのドラゴンがこちらを見下ろしてくる。

 片目は傷負い潰れていた。痛々しいその姿に、真帆は思わず目を細める。

 

『これはまた……随分と若く可愛らしい姿をしているな、オズヴァルト』 

「……?!」

 

 真帆は目を丸くする。男性のような低く重い声が頭に響いたのだ。

 ドラゴンの口は動いていない、ましてや彼の喉からでた声ではない。要するに“テレパシー”というやつだろう。

 

『どうした?それは新しい魔法なのか?』

 

 ドラゴンから投げかけられた言葉に、真帆はその場で体が固まってしまった。

 どうやら、このドラゴンは自分をオズヴァルトだと思っているようだ。

 

「えっと……僕はオズヴァルトじゃなくて……」

 

 するとドラゴンは頭を傾げ、こちらをじっと見つめる。

 真帆は微動だにせず、息飲んでいた。

 

『そうか、そうだったな。噂に聞く“オズの子”というのは、お前のことだったか。歳をとると物覚えが悪くてな』

 

 まるで老人と話しているかのようで、真帆は小さく笑う。不思議と先ほどまでの緊張がほぐれていた。

 

「その……オズヴァルトじゃなくて、ごめんなさい」 

『いいや。謝ることではないオズの子。ドラゴンは皆、“魂の匂い”を嗅ぎ分けることができる。懐かしい匂いだ』

 

 真帆はそっと自身の胸に手を当てた。

 “魂の匂い”それは染みついたオズヴァルトの匂いがしているのだろう。

 一人ひとりに魂の匂いがあるとして、自分の魂はオズヴァルトのもの。だとすれば、“真帆の魂”はどこにあるのだろう?

 

(どこまでも僕はオズヴァルトなんだな)

 

 視線を下げれば、水面を踏み締める足が見える。真っ黒な水面には、薄らと自身の顔が反射していた。

 湖の中にいる自分の顔は、情けない顔でこちらを見つめ返している。

 

『この老いぼれは長くなくてな』

 

 そう言うので、真帆はすぐさま顔を上げた。

 

「……え?」

『懐かしい魂の匂いを感じ、最後に別れを告げようと思っていた。そこに現れたのは、どうやらオズの子だったようだ』

「僕は──」

 

 オズヴァルトじゃない。

 その葛藤と、ドラゴンの思いに対する申し訳なさが胸の中でせめぎ合っていた。

 

『オズの子よ。名はなんという』

 

 少年は真っ直ぐな瞳をドラゴンに向けた。

 

「進堂真帆」

『そうか、マホ。最期に会えてよかった』 

「本当に行ってしまうの?」

『この世に生を受けたものは、平等に“死”を迎える。命に永遠はない』

「でも……嫌じゃない?辛くない?悲しいとか、後悔だとか。僕はオズヴァルトじゃないし、あなたに何もしてあげられない」

 

 静かな沈黙が流れた。

 ドラゴンの鼻先が真帆の額に優しく触れる。

 

『心優しき人間の子。何を恐れているのか。“死”は終わりではあるが、終わりではない。ドラゴン私たちの“死”は風になること。自然へ帰ること。それは恐怖などではない。オズヴァルトの魂が、マホの中にあるように。魂は常に世界を巡っている』

 

 真帆はドラゴンの顎をそっと撫でた。

 

「死んだら星になんてならないよ。あるのは“無”だけ。残された人は“無”に頼るしかないんだ。何も残らないよ……」

『マホにとっては、“残ること”が大切なのか?それならば、己がオズヴァルトの魂であること、その“残された魂”に意味があると?』

 

 ハッとして目を見開いた。心の奥が揺れるのを感じる。

 ドラゴンは少年の額から鼻先を離した。そうして、顔を夜空へと向けるので、真帆も顔を上げた。

 瞬く星空は美しく、無数の星々が自分を見下ろしているかのようだ。

 

『無責任だと思うか。しかし、ドラゴンには人間ほどの情緒はなくてな。マホが考えていることは、私にはわからない』

 

 優しい声色が頭の中で響く。

 

『お前はオズの子である前に、ヒトの子だ。そして人間はドラゴンよりも思慮深い。考えて、考えて……己の答えを探すといい』

 

 空気が揺れるのを感じる。

 真帆はドラゴンに視線を向けた。

 

「待って!行かないで!」 

『会えてよかった。進堂真帆。小さき魔法使いよ』

 

 すると風が巻き起こり、真帆は思わず目を閉じる。

 最期に聞こえたのは、優しい咆哮だった。

 

 

 翌朝。寝袋で目が覚めれば、隣に鳥羽の姿がない。真帆の足の裏は冷えていた。

 外からは鳥羽と蔵の話し声が聞こえてくる。テントを出れば、朝日の眩しさに目を細めるのだ。

 

「おはようございます」

 

 二人の背中に挨拶する。

 

「目が覚めたか。丁度いいところだな」

 

 蔵は振り向くと、そう言って、こちらに双眼鏡を渡してきた。

 

 「見てみろよ」と彼は言う。双眼鏡を受け取り、蔵の隣へ立ち並ぶ。

 肩に手を置かれ、彼は山の先を指差した。

 

「あそこ、あの尾根の上だ」

 

 言われた方へ双眼鏡を向け、レンズを覗く。

 少年の目に映ったのは──

 

「ドラゴン……」

 

 真帆は静かに口にした。

 

「人間には近付かないが、こうして空を飛ぶ姿を見ることはできる。ここは特等席なんだ」

「凄いです……あんな大きな体で、空を飛んでるなんて」

「ドラゴンはこうして、群れで行動するんだ。この時期は冬に向けた移動時期のため、この山を通過する。今の季節が“観測時期“に最適ってわけ」


「これを見るために、蔵さんは仕事で登山に?」

「環境調査だよ。それと、こうしてドラゴンの群れを確認して、生態調査をしてる……まぁ、わかりやすく言えば保護活動みたいなものか」

 

 そうして蔵は笑顔で言う。

 

「来て良かっただろう?」

 

 真帆はドラゴンの群れを見つめながら、そっと微笑んだ。

 

「はい。来て良かったです」

 

 昨夜の出来事は夢か現実か。

 しかし、真帆にとってはどちらでも良かった。

 

(昨日のことは、心に閉まっておこう)

 

 真帆は二人と共に、ドラゴンの群れを見送った。

 穏やかな風が吹く。その中に、微かに咆哮が聞こえた気がした。

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