第16話 母と娘
店の外には、すでに亜澄果の姿はない。まだ遠くには行ってないだろう。真帆は急いで駆け出した。
魔香堂を飛び出した彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。それを見ておきながら放ってはおけない。
夏の日差しを浴びながら走り周り、隣町に続く橋までやって来た。そこから周りを見渡すも彼女の姿はない。
「どこにいるんだよ……」
もともと体力はないが、夏の日照りが余計に体力を奪っていく。走り疲れて脇腹も痛んできた。汗を腕で拭い、息を整える。
この近くには公園があったはずだと、真帆はその方向へ歩みを進めた。
──
町内の小さな公園だ。今では殆どの遊具が撤去され、手入れもまともにされていないので雑草が生い茂る。子供さえもあまり寄りつかない場所となった。
そんな閑散とした公園でブランコに腰掛ける人影が見える。真帆はゆっくりと近づいて声をかけた。
「隣、いいかな」
亜澄果は驚きつつも、小さく頷く。
「ありがとう」と言って、彼女の隣のブランコに腰掛けた。
亜澄果は瞳を潤ませながら、唇を噛み締めている。
「……ごめん。放っておけなくて探しに来たんだ」
真帆が言えば、少女は眉を下げた。
「……本当だよ。追いかけてくるなんて……」
とは言いつつ、怒っている様子はない。安堵と嬉しさが入り混じっていた。
彼女と会ったものの、どう話せばいいかわからず真帆は黙ってしまう。
沈黙が続き、静まり返った公園に蝉の声だけが響く。
「ママなんだよね、言ったのは」
沈黙を破ったのは亜澄果だ。
「えっ?」
予想外の人物に目を見開く。
「『気持ち悪い』『顔も見たくない』だって……笑っちゃうよね」
スカートを強く握る拳は微かに震えている。彼女の声からは、悲しさと同時に怒りも感じ取れた。
「いくら顔を洗っても、鏡に写るのは同じあたしの顔。ママは顔を見てくれないし、話そうともしないの。パパとも仲が悪くなってる。みんな、あたしのせい……」
亜澄果の声は震えている。握りしめた拳には涙の粒が落ちてゆく。
「八尾さん……」
できる男なら、ここで彼女の手に触れたり、肩を引き寄せて抱きしめるのだろうか。真帆には到底できないことだ。
慰めの一言さえも出ない自分が情けない。適切な言葉を選べる自信もなかった。
真帆はただ、彼女が泣き止むまで傍に寄り添うのだった。
ブランコの鎖が軋む。亜澄果は涙を拭い、ふらつきながら立ち上がる。
真帆は彼女の様子を伺いながら声をかけた。
「どうするの。やっぱり、魔法薬が欲しい?」
「……行かなきゃ……」
亜澄果はブランコから離れていく。彼女の頬には涙の跡がつき、目は
真帆は少女の背中を追う。
「待ってよ!行くってどこ──」
強い向かい風が吹いた。少年は思わず目を閉じる。砂埃が顔に当たり、風が運ぶ土草の匂いがした。
ブランコが揺れ、軋む音が聞こえる。
(なんだ……?)
風が止んだ頃に、そっと目を開く。
「……八尾さん?」
彼女の姿が公園から消えていた。まるで、足音もなく風と共に去ったようだ。
ブランコにも、ベンチにも、公園の入り口にも彼女の姿がない。
「……いない……?」
足を一歩踏み出したとき、つま先に何かが当たる。下を向けば小さな巾着袋が落ちていた。
真帆はそれを拾い上げる。手のひらに収まるほどの小さな袋だった。中には硬い石のような感触がする。
「八尾さんの落とし物かな」
どうするか迷ったが、巾着袋の口を開き、中身の物を手に取り出した。
すると碧に輝く鉱石の欠片が出てくる。
「これって……」
それは亜澄果が魔香堂に連れてきたピクシーにあげた、真帆の魔力がこもった魔鉱石だった。
「持ち歩いてたんだ……」
途端に真帆は照れ臭くなった。
恐らく衰弱していたピクシーが回復した後で、使い道が無くなった魔鉱石を持て余していたのだろう。
魔香堂に来て春鈴にでも返せばいいものを、彼女は綺麗な巾着袋に入れて持ち歩いていたらしい。
魔鉱石を袋に入れ直すと口を縛り、自身のポケットに仕舞う。
(二人に伝えないと……)
真帆は急いで魔香堂へ帰っていく。
「八尾さんが──!」
真帆は勢いよく魔香堂のドアを開けた。
すると、店内には見知らぬ女性が鳥羽たちと立っている。
「騒々しいな。お客様の前だぞ」
客は中年女性でショートカットの赤栗色の髪。背筋は真っ直ぐで、凛々しい顔立ちが硬派な印象を受ける。
「……すみません……」
彼はそっと店内に入れば、ドアをゆっくりとした動作で閉めた。
「それで、“娘を愛せる薬”が欲しいと?……“愛してもらう”ではなく?」
鳥羽が中年女性に聞く。その女性は頷いた。
「そうよ。“愛したいのに愛せない”これほど辛いことはないでしょう」
真帆は目を細める。吊り目がちな目の形、顔立ち、髪の色。雰囲気は違えど、容姿は誰かを彷彿とさせた。
「……もしかして
すると女性は驚いた顔で真帆をみた。
「娘を知っているの?」
「僕は同じクラスなんです」
それから真帆は、今が緊急事態なのだと思い出した。
「そうだ!八尾さん……娘さんが、どこかに行ってしまって!!」
女性は目を丸くする。
「どういうことなの!?」
焦る母親に真帆は、亜澄果が薬を求めて魔香堂に訪れたこと、公園での会話を話した。
亜澄果の母親は頭をかかえ足がふらつく。鳥羽は肩を支えた。
「大丈夫ですか」
「えぇ……ごめんなさい」
母親は足を踏み締め、立ち直した。
真帆は女性に聞く。
「あの……どうして娘さんに『顔も見たくない』と言ったんですか。彼女は凄く傷つてた……」
すると女性は、赤い口紅を引いた唇を強く噛み締める。
「私だって、そんなこと思いたくなかったわよ!」
目を潤ませた女性の怒声が店内に響く。前髪を持ち上げ、整えられた髪を乱した。
「ふと見た亜澄果の笑顔が……すごく
口を手で覆い、母親は真帆から顔を背けた。肩が小さく震えている。
「自分でも、わからない……いつの間にか、あの子を愛せなくなって……わたし……」
それで
(八尾さんのお母さんは、本気で嫌いになったわけじゃなかったんだ)
その事実が判明しただけでも真帆は安堵した。
これなら母娘が和解できるチャンスはあるかもしれない。
「八尾さ……娘さんと連絡を取れますか?公園で居なくなった後、ここに来るまでも姿が見えなかったので」
「えぇ……そうね……」
女性は急いで肩にかけていたバッグから携帯端末を取り出した。そして電話の発信ボタンを押す。
呼び出し音が女性の携帯端末から聞こえてくる。
「……」
真帆たちは静かに見守った。
「……」
母親は目を伏せ、首を横に振る。携帯端末を持つ手が震えていた。
「出ないわ……繋がらない……」
膝を折り、床に倒れ込む。
「私が……私がいけないのよ……愛せなかったから……」
口をおさえて嗚咽を漏らし始める。悲痛な思いに真帆も心を痛めた。
春鈴は母親の肩に優しく手を添える。
魔香堂には、母親の啜り泣く声と、時計の秒針の音だけが嫌に響いていた。
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