第2話 勇者の栄光と断頭台
暗闇の中、水滴が石床を穿つ音。 狂おしいほど規則的なリズムだけが、鼓膜を叩く。
冷え切った石床の上に座り込み、膝を抱える。 頭蓋の裏に、ライザの言葉がこびりついて離れない。
「黙って大人しく死ね」
その言葉が、棘となって心臓に食い込んでいる。 どうしてだ? 何も覚えていない。 王を殺したという記憶が、どうしても腑に落ちない。 一体何が起きた? あの晩、酒に酔っていたのは確かだ。 だが、王と激しく口論した後の記憶が、まるで何者かに切り取られたかのように欠落している。
もし本当にやったのだとしたら、動機は何だ? そして、もし俺がやっていないのだとしたら、真犯人は誰だ……?
思考は堂々巡りを繰り返すだけ。 記憶は戻らない。 鉄格子の向こうから聞こえてくるのは、慈悲のない雨音。 この静寂が、精神を腐らせていく。
やがて、地下牢の鉄格子の隙間から漏れ始める薄明かり。 まずい、もう時間がない。 刻一刻と、処刑の刻限が迫っている。
その時。
鈍く重い音。 石壁を伝って響いてくる。 肉と鎧が同時に床へ叩きつけられたような音だ。
何事かと鉄格子へ張り付くと、見覚えのある少女がこちらへ駆けてくるのが見えた。 仲間のアーシェだ。
勇者パーティーで唯一、背中を預けられる仲間。 『神鐘の獣魔師』の二つ名を持ち、若干十六歳で勇者パーティーに抜擢された天才少女。 その隣には、彼女が召喚した銀色の狼が影のように寄り添っている。 助けに来てくれたらしい。
「兄様! ご無事ですか!?」
アーシェは俺のことを「兄様」と呼んで懐いてくれている。 血は繋がっていないが、誰よりも大切な妹分だ。
「兄様、早く。外へ出ましょう」
アーシェは焦燥に駆られたように、震える手で鍵を開け、俺の手を引こうとする。
「そのうち、ここに兵士たちが処刑人を連れて来ます!」
彼女の言葉が、冷たい現実を突きつける。
「城下町まで出れば、早馬を用意していますから」
「ちょっと待て、アーシェ。そんなことしてお前は大丈夫なのか?」
思わず、彼女の細い肩を掴んで引き留める。
「私のことならお気になさらないで。さあ、急ぎましょう」
しかし、彼女は首を横に振る。
「待て、待て、待て。気にするに決まってるだろ! 可愛い妹分に何かあったら、俺は一生後悔する!」
すると、アーシェは涙ぐんだ瞳で俺をまっすぐに見つめ、凛とした声で言い放った。
「じゃあ、言わせてもらいます。私こそ、兄様が処刑されたら、すぐに後を追いかけます!」
「それでもいいの?」
その瞳からは、大粒の涙が今にも零れ落ちそうだった。 その覚悟に、言葉を失う。
「わかった。その代わり、アーシェも一緒に逃げるんだぞ。いいな?」
彼女は言葉少なに、コクリと頷いた。
よし。覚悟は決まった。 ここから出て、真実を暴くんだ。
「兄様、あと、大事なこれを」
そう言って、アーシェは鞄を差し出した。
「ああ、ありがとう」
急いで地下牢を飛び出し、城からの脱出路を駆ける。 中庭までたどり着くと、そこにはアーシェが召喚したであろう巨大なグリフォンが、堂々と翼を広げて待っていた。
「兄様、乗ってください」
言われるがまま、グリフォンの背に跨る。 分厚い羽毛越しに、頼もしい体温が伝わってくる。
「アーシェ! このまま空を飛んでいけば、簡単に逃げられるんじゃないか?」
「いいえ、兄様。この城全体に、幾重にも厳重な対空防御結界が張られています。あまり高く飛べないですし、この子が行けるのは城下町ぐらいです」
「そうか……」
(そうだよな。都合よくはいかないよな……)
その時。 肌を刺すような殺気が、背筋を駆け上がる。 大気が焼け焦げる臭い。 殺意の塊が空気を引き裂き、迫る。
「危ないアーシェ! 左に避けろ!」
熱波が鼻先を掠める。 直後、空気が爆ぜる音が鼓膜を叩く。 勇者パーティーの一人、『劫火の魔弓師』ベルゼだ。 俺の脱走に気づき、早々に狩りに来やがったか。
間髪入れずに第二射。 放たれた紅蓮の矢が、正確無比にグリフォンの左翼を捉える。
「きゃあああ!」
「アーシェ!」
(クソッ、被弾したか……!)
着弾の衝撃が骨を砕き、瞬く間に脂の乗った羽毛が火種となって燃え広がる。 鼓膜をつんざく絶叫。 大空に木霊する。 翼から黒煙の尾を引き、無数の羽根が火の粉となって散っていく。
バランスを失うグリフォン。 そのまま急速に高度を落とし始める。
「おい! グリフォン! 痛いだろうが、お前の主を守るために何とかもう一度羽ばたくんだ!」
必死に叫ぶ。
「じゃないと、このまま落下すると皆死んじまうぞ!?」
(クソッ、言葉が通じると思えんが、頼む!)
焼け落ちる翼を、グリフォンは狂ったように羽ばたかせる。 繊維が千切れ飛ぶ音をさせながら、焦げ臭い風を強引に掴む。 苦悶の唸りを上げ、その巨体は地面へと一直線に突っ込んでいく。
大地が悲鳴を上げた。
巨体が大地を削り、土塊と火花を撒き散らす猛烈な滑走。 四肢で強引にブレーキをかけ、地面を擦る翼が上げる嫌な摩擦音。 主を落とすまいとする決死の踏ん張り。
そして、グリフォンはようやくその場に――静止。
「おい! アーシェ! 大丈夫か!?」
震える声で尋ねる。
「うぅん? 大丈夫! 私は大丈夫よ。兄様は?」
「俺も大丈夫だ。コイツが踏ん張ってくれたおかげで、なんとか難を逃れたみたいだ」
感謝を込めて、グリフォンの首元を優しく撫でた。 荒い息遣いが掌に伝わる。
「ありがとな、グリフォン」
その刹那。 腹の底を揺さぶるような、湿った破砕音が轟いた。
グリフォンの体内から、業火が噴き出す。 まるで体内で圧縮された魔力が暴発したかのように、内側から食い破られ、瞬時に全身が炎に包まれる。 断末魔を上げる暇さえなかった。
「嫌ぁぁぁぁぁぁーーー!」
アーシェの慟哭が、夜空に響き渡る。 炎の向こう側。 ベルゼが立っている。 彼は、こちらの絶望的な状況を至極楽しそうに、口元を歪めて眺めていた。
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