大正純愛録〜声無し令嬢と青き異能者〜
アカツキ千夏
第一章:白彼岸花の偽り
1.
大正中期。
帝都の夜は文明開化の灯りが華族の邸宅を絢爛に照らしていた。
しかし月代邸の洋風な石造りの壁はその光を冷たく跳ね返し、まるで重い監獄のように見えた。
月代志乃はその邸宅の奥、自室の寝台で耳を塞いでいた。
(ああ、誰か、この喧騒を止めて…!)
志乃は十五、六歳。格式高い月代家の令嬢でありながらその澄んだ瞳は常に極度の疲労の色を宿している。
世間では“沈黙の令嬢”と呼ばれ、病弱ゆえに声が出ないとされているがその真実は彼女を蝕む異能の代償だった。
志乃の異能は空間の音、感情の波動、そして他人の心の声を容赦なく聴き取ってしまう。
彼女はその能力の使い方を知らないため、意識の有無にかかわらず凶暴な威力で常時発動している状態にある。
廊下を歩く使用人の微かな靴音。
庭の白百合が揺れる衣擦れの音。
そして壁一枚隔てた父親の応接間から漏れてくる父親の心の声。
(九条家の御曹司が警察官などという俗な職に就いているとは。だが、この誘拐事件を利用して娘を九条家に押し付けられれば我が月代家の地位はさらに盤石となる)
父親の野心とその裏にある冷酷な算段の波動が志乃の脳内に直接、激しい頭痛となって響き渡る。
それが公の場での発声障害となって志乃から声という自由を奪っているのだ。
「お嬢様、旦那様がお待ちでございます」
部屋の戸口から清(きよ)の声がした。
志乃より二、三歳年上の侍女であり、志乃が幼い頃からの友のような存在だ。
清だけが志乃の異能の真実を知っている。
(お嬢様の顔色がまたひどい。旦那様は志乃様がどれほど苦しんでいるのかまるでわかっておられない)
清の心の声はいつだって志乃への深い愛情と憐憫に満ちている。
志乃は清の手を取り、小さく首を横に振った。
声は出ないがその瞳は「大丈夫よ」と語っている。
志乃が九条怜央との偽装婚約に同意したのはそれがこの“心の声の檻”である月代家から逃げられる、唯一確かな道だと確信したからだ。
この婚約を機に父親の心の声から解放されることを切望していた。
外は激しい夕立が過ぎ去り、窓ガラスには水滴が残っている。
志乃が応接間に着くと静かで張り詰めた空気が満ちていた。
志乃は静かに父親の隣に腰掛ける。
重厚なマホガニーの机を挟んで父親や志乃と向かい合っていたのは九条怜央だった。
九条怜央。二十五歳。
九条家の格上の御曹司でありながら職業は警察官。
彼の顔立ちには欧州人の血が色濃く出ており、その凛とした佇まいはまるで雨上がりの空のように清冽だった。
「九条警部補。婚約の話は既にご承知の通り、受け入れましょう。ただし、この婚約は巷で騒がれている華族令嬢・令息誘拐事件の捜査協力という名目で行っていただく」
父親は表面上、穏やかに語る。
「(九条怜央の異能はたしか水属性。威力もそこそこ…。我々の利益に必ず役立つはず。だが妾の子で混血ゆえに孤立しているという噂もあるが…。どう扱ってやろうか)」
志乃は父親の心の声の打算と侮蔑を聴き取り、胸が締め付けられた。
「月代様、承知いたしました。私の立場はあくまで警察官。この婚約は事件の情報を得るための偽装であり、貴家のお嬢様を公に保護するための措置です」
怜央は丁寧な口調で対応した。
そして怜央は志乃に向き直った。
彼の瞳は志乃の疲弊した眼差しを鋭く射抜く。
「月代令嬢。貴女の病弱は存じております。ですが私の捜査活動に伴う貴家への訪問は世間の耳目を欺くためにも頻繁に行うことになります。ご不快に思われるかもしれませんがご容赦願いたい」
(この子は本当に声が出ないのか?目の奥の疲労はただの病だけではないはずだ)
怜央の心の声は強い疑念と警察官としての使命感、そして志乃への微かな好奇心が混ざり合っていた。
志乃はテーブルの上の便箋を取り、震える指で筆を走らせた。
声が出せない彼女にとって、文字は唯一の自己表現手段だった。
「(九条様。捜査のため必要とあらばご遠慮なくお越しください。私にできることは全て協力させていただきます)」
そして最後に“逃げたい”という言葉を小さく書き記し、怜央の方に向けて差し出した。
怜央は志乃の書いた文面を読み、僅かに目を見開いた。
(逃げたい、だと?この子は自らの意志でこの婚約を利用しようとしている。この重々しい邸宅にこの子が求める自由はないということか。やはり、ただの令嬢ではない…)
彼の心の声が志乃の逃亡の意志をそのまま肯定した。
志乃は怜央の正義感が自分の願いと交差したことを感じ、胸の奥が温かくなった。
「ありがとうございます。それでは週明けより婚約者としてお嬢様との交流を持たせていただきます」
怜央が立ち去った後、父親は満面の笑みを浮かべた。
その心の声は勝利を確信した醜い高揚感に満ちていた。
(これで九条家の後ろ盾は手に入った。志乃のあの忌々しい異能も九条警部補を通して我々の利のために使える…!)
志乃はあまりにも激しい父親の心の声の波動に思わず口元を押さえた。
喉の奥から押し殺したような“ううっ”という微かな音が漏れる。
(吐き気がする…お父親様は私のことを物のようにしか思っていない…)
翌日から怜央は“婚約者”として月代邸を訪れるようになった。
彼は常に丁寧な言葉遣いで表向きは志乃の体調を気遣い、社交界の話題を提供するがその裏では警察官として、誘拐事件の捜査状況や華族間の異能の継承状況について月代家の情報を探っていた。
ある夕刻、怜央が捜査の経過報告という体で月代邸の庭園に志乃を呼び出した。
「令嬢、ご体調はいかがですか。随分とお疲れの様子だ」
怜央は庭園に咲き始めた白い彼岸花を見て、ふと口にした。
「この花は別名、曼珠沙華。お目出度い花ではありませんね。花言葉は“諦め”、そして“悲しき思い出”だ」
(こんな花を庭に植えるとは。月代家はこの子に何を諦めさせようとしているんだ。まるでこの子の無言の悲しみを象徴しているようだ)
志乃はその花言葉を聞き、身を硬くした。
まさにこの偽装婚約は月代家という檻を諦めるためのものだ。
志乃は手帳に静かに書き記した。
「(九条様のお話はいつも“核心”を突かれますね)」
怜央は志乃の文字を読むなり、庭の池の水面に目をやった。
「私が核心を突くのは私の職業柄、嘘と虚飾に満ちた社交界を信用していないからです。志乃殿の沈黙も私には病ではなく、何か大きな代償を払っているようにしか見えない」
(この子が沈黙が酷使で苦しんでいるなら、すぐにでも助け出さねば。あの目の下の隈は尋常ではない。…考えられるとしたら特級異能だが属性は一体…?)
彼の疑念と心配の念が志乃の心に届く。
彼は社交界の嘘を嫌い、正義感から志乃の真実を追っているのだ。
彼の内面にある熱い心が志乃には伝わってくる。
その時、志乃は背後から近づいてくる憎悪の心の声を聴き取った。
(あの半端者がまた志乃を誑かしている。混血の警察風情が九条家の威を借りて月代家にまで入り込みおって)
それは月代家の親戚で怜央の“異国の血筋”を忌み嫌う男だった。
男は怜央と志乃の二人きりの状況を見て、強い嫉妬と軽蔑の念を抱いている。
男は志乃に向かって露骨に嫌味を投げかけた。
「おお、志乃様。沈黙の令嬢は九条警部補殿には文字で“愛の言葉”をお伝えなさるのかね。おやおや、まさか警部補殿は令嬢の声がいつ出るのか期待しておられるのではあるまいな」
男は声が出ない志乃の弱みを嘲笑う。
志乃は全身の血の気が引くのを感じた。
しかし怜央はすぐにその男に毅然とした態度で向き直った。
彼の顔から笑顔が消え、警察官としての厳格な顔つきになった。
「婚約者である私の体裁を気にされるのでしたら、そのような無礼な発言は謹んでいただきたい。それに令嬢の体調は私にとって最優先事項だ」
(この男の心の声は怒りの波動で満ちている。私の体裁を守るためと言っているがこれは私を嘲笑われたことへの彼自身の正義感からくる怒りだ…!)
怜央は表向きは丁寧な口調を崩さないものの、その一言一言には水流のように冷たく鋭い威圧感が込められていた。
男はその場の空気に気圧され、言い返す言葉もなくそそくさと立ち去った。
男が遠ざかるのを確認し、怜央はふっと表情を緩め、志乃に優しい眼差しを向けた。
「無礼な真似をさせて申し訳ない。貴女を不快にさせることは私の本意ではない」
(私の正義は弱い者を守ることにある。この子を社交界の虚飾から必ず救い出さねばならない)
志乃は彼の心の声の優しさに思わず涙腺が緩むのを感じた。
声が出せない彼女にとって真の言葉を聴き取れる怜央の存在は既に唯一無二の光となりつつあった。
志乃は手帳にゆっくりと書き記した。
「(九条様。ありがとう、ございます)」
彼女の筆跡は、感謝と微かな恋心に揺れていた。
怜央はその“ありがとう”の文字に込められた声なき熱情を感じ取り、そっと目を細めた。
「礼など結構。婚約者として当然のことだ。…ただし令嬢、貴女が本当にこの婚約を“逃げ道”として利用したいのなら、私の前では我慢をしないでほしい。貴女のその疲弊はいつか限界を迎える」
彼の言葉と心の声は偽装の壁を越えて、志乃の弱さに触れてきた。
志乃は自分の全てを見透かされているような恥ずかしさと激しい安堵に包まれた。
雨上がり、白い彼岸花が濡れた庭園で沈黙の令嬢と青き異能者は偽装の婚約という名の糸で強く結びつけられた。
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