赤松天翔物語①

姫笠

第一章 示された道

―プロローグー①

朽ちた鳥居の前で、風が泣くように笛を吹いていた。

灯の消えた社の奥、封じられたはずの何かが目を覚ます。

それは歴史の歯車へ、ゆっくりと手を伸ばした——。



青空の下、お爺さんが細い体を小刻みに震わせながら女の子を見上げる。

「桜、お前のご先祖は戦国時代の殿様だったんじゃぞ」

優しい声でそう言ったお爺さんの目はどこか遠くを見ているようだった。

桜と呼ばれた女の子はそれを聞いて、肩をすくめて見せる。

戦国時代のことはよく知らないし、ご先祖様が誰だったのかなんて、正直どうでもよかった。

過去よりも今のほうが大事だし、それが自分の生活に影響することはない——そう思っていた。

桜の祖父は、戦国時代の殿様がそうしていたという理由で、桜をしょっちゅう近所の大きな神社に連れて行った。

静寂に包まれた境内は、どこか神聖な空気を漂わせながらも、不思議と温かさを感じさせた。

太陽の光が降り注ぎ、古びた社殿の屋根を優しく照らしている。


「お前もここでお祈りするのじゃ。」

祖父の静かな声が響く。

桜は手を合わせ、目を閉じる。

「よくお祈りするのじゃ。ご先祖様の冥福と、これからの一族の——」

(イケメンの彼氏ができますように!)

ぱっと目を開けると、祖父がにこにこと頷いていた。

「うむうむ、今日は熱心にお祈りしとるのう」

静寂の中、心地の良い風が吹き抜けた。



ある日の学校——。

先生が黒板の前に立ち、チョークを走らせながら数学の問題を説明していた。

桜はぼんやりとノートを開いていたものの、あまり集中できていなかった。

「出席番号3番、ここの答えは?」

先生の凛とした女性の声が教室に響く。桜は何気なくノートに目を落としながら、隣の席の友達が答えるのを待った。

しかし、しばらくしても誰も答えない。

「出席番号3番ー!聞こえないのかー?」

先生の声が少し苛立ちを帯び始める。桜はちらりと周りを見渡したが、みんな桜の方を見ている。

――ん? どういうこと?

「呼んでるよ! 桜!」

隣の席にいる友達の叶(かなえ)が、肘で軽く桜をつついた。桜はきょとんとしながら彼女を見た。

「え?」

「ほら、3番って!」

「私、4番だよ?」

桜は不思議そうに答えた。確かに、桜の出席番号は今まで4番だったはずだ。

「何言ってるの! あなたはずっと3番でしょ?」

叶は笑いながら言ったが、その目には少し不安げな色が浮かんでいた。


おかしい、昨日まで確かに「4番」だったはずなのに。

「……変だなあ」

そう言いながらも、先生の視線が鋭くなってきたので、桜は渋々立ち上がった。

「えっと……答えは……」

教室の外の木々がざわめいているように感じた。



夕暮れの学校の体育館——。

フェンシング部の部員たちが、それぞれ面をつけて剣を交えたり、基礎練習に励んだりしている。

金属の剣先が打ち合う乾いた音と、息を切らす声があちこちから響いていた。

その中央では、桜と友達の叶が向かい合い、白い防具に身を包んで試合をしている。鋭い剣先が何度も空気を切り裂き、足音が床を小気味よく叩く。

最後に叶の突きが桜の胸に決まり、審判器が「ブーッ!」と鳴り響く。

「ぷはーっ。叶、強すぎだよー」

桜は面を外し、肩で息をしながら大きく息を吐いた。額には汗がにじみ、頬も赤く上気している。

「桜ー、軸ぶれぶれだよー」

面を取った叶は、にこにこと笑いながらも容赦なく指摘する。

「えー、そうかなぁ」

桜は口を尖らせて首を傾げる。

「もー、最近練習に来ないからだよ」

「えへへ……これからはちゃんと来るね」

照れ隠しのように桜が笑うと、叶は呆れたようにため息をつきながらも楽しそうだ。

「カラオケいこっか」

「うんっ!」

練習を終えた二人は顔を見合わせ、同時に声を弾ませた。


夕暮れの帰り道。

商店街の看板が一つ、また一つと明かりを灯しはじめる頃、叶は元気いっぱいに歩道橋の階段を駆け上がっていった。

桜がゆっくりとその後を追うと、階段の途中で小柄なおばあさんが、大きな荷物を背負いながら息を切らしているのに気づく。背中が小刻みに揺れて、足取りも重そうだ。

「おばあさん、だいじょうぶー?」

桜は足を止め、自然にその背中に手を添えて荷物を押し上げた。

「え? あー、ありがとうねぇ、お嬢ちゃん」

おばあさんが驚いたように振り返り、皺の間から柔らかい笑みを見せる。

「いえいえー」

桜はにっこり笑い、軽く首を振った。

歩道橋を登り切った叶が、下からこちらを見上げている桜に気づき、ふふっと口元をほころばせる。その目は少し誇らしげで、少し呆れたようでもあった。

「ごめん、おまたせー!」

歩道橋を登り切ったおばあさんを見届け、桜が駆け足で合流すると、叶は肩をすくめて笑う。

「桜いい子すぎて、なんか逆にむかつくー」

「えー、なにそれー!」

桜が抗議の声をあげると、二人は顔を見合わせて笑い声を重ねる。

夕日の中、歩道橋の上を並んで歩く二人の影が、長く長く道に伸びていった。



朝の空は薄い雲が広がっていて、太陽の光を柔らかくぼかしていた。

桜は眠い目をこすりながら学校へ向かう。出席番号の件が気になっていたけれど、もしかしたら桜の思い違いかもしれない。

疲れていたのかもしれないし、単純に勘違いしただけかも。

そんなことを考えながら、校門をくぐる。

教室に入ると、いつもと変わらない朝の風景が広がっていた。

みんながそれぞれの席で雑談をしたり、ノートを広げて宿題の答えを確認していたり。

特に変わったことはない……と思っていた、その時だった。

「おはようございまーす」

教室の前のドアが開き、男性の先生が入り、朝礼を始める。

短く刈り揃えられた髪に、少し小太りの体型、メガネの奥にある目は優しそうだけれど、どこか厳しさを感じる、

見たことがない顔だった。

「え、担任の先生変わったの?」

桜は隣の席の叶に小声で尋ねた。すると、彼女はまるで桜が変なことを言ったかのように眉をひそめた。

「何言ってるの? 担任はずっと田中先生でしょ?」

「え……? でも、昨日までは斎藤先生だったのに……」

桜の言葉に、叶は困惑した表情を浮かべた。

「……どうしたの? 最近、変だよ?」

その言葉に、背筋が冷たくなるような感覚が走った。

変なのは私? それとも――。

教室の中を見渡すと、みんな普通にしている。

誰も「先生が変わった」とは言わないし、桜が昨日まで教わっていた斎藤先生のことを話題にする人もいない。

まるで最初から、田中先生が担任だったかのように。

「そうなのかなあ……」

自分で言いながらも、胸の奥に不安が広がっていくのを感じた。

何かがおかしい。だけど、それが何なのか分からなかった。



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