世界の端っこ

縷々

第1話 足らないピース

第一章

足らないピース



大事なことほど、あなたは言わなかった。


それに不満を覚えたことは、たぶん一度もない。言葉にしなかったからといって、何も伝わらなかったわけじゃないし、むしろその逆だった。沈黙の方がよほど雄弁で、耳を澄ませば簡単に聞き取れるくらいだった。


一番簡単な言葉が、いちばん楽なはずなのに。たった一言で済む感情を、あなたは決まって遠回りしていた。いくつもの言葉を選び、並べて、少しずつ形を変えながら、結局どれも核心には触れない。触れないまま、周囲だけを丁寧になぞっていく。


それを、ずるいとも、卑怯だとも思わなかった。ただ、あなたらしいと思った。


遠回りが好きだったのも、その延長線上だったのかもしれない。

いつも通りの帰り道を歩いていても、気がつくと知らない路地に入り込んでいる。理由を聞くと、あなたは決まって笑った。


「こっちの方が、景色がいい気がするから」


実際のところ、景色に大した違いはない。古い家並みと、少しだけ明るい街灯。自販機の音と、遠くを走る車の気配。ただ、それでもあなたは、そこに何か特別なものを見つけたような顔をしていた。


「綺麗かどうかじゃなくてさ」


そう言って、少しだけ考える仕草をする。


「たぶん、理由があるかどうか、なんだと思う」


意味はよく分からなかった。でも、分からないままでいい気もした。あなたの言葉はいつも、理解するためのものというより、考え続けるためのものだったから。


歩きながら、足元に伸びる影を見る。街灯に照らされて、二つの影が並んでいる。高さが違って、少し揺れて、たまに肩のあたりがぶつかる。あれは肩なのか、頭なのか、影だけでは分からない。


互いの方を向き合っているようにも見えて、笑っているようにも見えた。


それを幸せな風景だと決め付けてしまうのは、きっと良くない。そんな単純なものじゃないことくらい、分かっている。それでも、幸せな風景だと思えてならなかった。そう思っていられれば、この世界はまだ、どうにかなる気がしたから。


あなたは、どんなことでも同じように考え込んだ。

大きなことも、小さなことも、区別なく抱え込む。答えが出ることはほとんどなくて、いつも明日に持ち越される。その「明日」が積もり積もって、ある日突然、限界を迎える。


そうなると、そばにいる自分は何も出来なくなる。声を掛けても、手を伸ばしても、どこにも届いていないような気がしてくる。


くしゃっと笑うその顔が、いつもと違うことだけは、すぐに分かった。


世界の終わりみたいな顔をしているのに、周囲は変わらずに幸せそうで、その落差が余計に痛々しい。けれど不思議なことに、あなたはとても簡単な言葉で、驚くほどあっさり立ち直ったりもする。


そのたびに思う。

あなたの思考も、心の中も、複雑に見えて、実はとても単純な作りをしているんじゃないか、と。


明るい気持ちは長く続かない。悲しみは忘れた頃に、何度でも戻ってくる。嬉しかったことを思い出せない夜があるのに、苦しかった記憶は、何の前触れもなく蘇る。


そこは、よく似ていると思った。

決定的に違うはずなのに、深いところで、似ている。


あなたは、まるでこちらの心を読んでいるみたいに、ちょうど欲しい言葉を投げかけてくる。考えていることを話す前に、その続きを当たり前の顔で口にする。


ときどき、少しだけ怖くなる。

こんなにも近くにいるのに、果てしなく遠い。


知れば知るほど、知らないあなたが増えていく。


足らないピースは、全部あなたが持っているような気がした。

誰もがどこか欠けたまま生きているのに、あなたは、持っていないはずのものを自然に差し出してくる。


それが救いなのか、錯覚なのかは、まだ分からない。


ただ、あなたにだけは、幸せになってほしいと思った。意味も分からないまま、そんな願いを抱いてしまう。


無責任だと言えば、あなたはきっと、あの笑顔で否定するだろう。

その顔を見てしまえば、世界も、自分自身も、少しだけ許せる気がした。


足らないままで、生きていく。

埋まらない溝を抱えたまま、誰かと並んで歩く。


この物語は、たぶん、まだ続いている。




第二章

帰り道の温度



季節は、はっきりしないまま移り変わっていった。

暑さが残っているのに、夕方になると風が冷たい。半袖のまま外に出たことを、少しだけ後悔するような時期だった。


帰り道は、いつも同じ時間だったわけじゃない。

あなたの予定に合わせて、少し遅くなったり、驚くほど早く終わったりする。そのどれもが特別で、同時に取るに足らない日常だった。


その日も、駅前のコンビニの前で待ち合わせた。

自動ドアが開くたびに、冷たい空気と電子音が流れ出す。あなたは、少し遅れて現れた。


「ごめん、待った?」


そう言って、軽く頭を下げる。

その仕草があまりにも自然で、待たされたという感覚はすぐに消えた。


「今来たところ」


そう答えると、あなたは安心したように笑った。

くしゃっとした、よく知っているあの笑顔だった。


何かを話そうとして、結局どちらも口を開かなかった。沈黙が気まずくならないことを、いつの間にか当然だと思うようになっていた。


歩き出すと、あなたはすぐに脇道へ入ろうとする。

理由を聞かれる前提でいるみたいに、少しだけ足を緩めて、こちらを見る。


「今日は、こっち」


「また?」


「うん。また」


説明は、それだけだった。


細い道に入ると、街灯の数が減る。影が長く伸びて、足元の境界が曖昧になる。静かで、少しだけ不安で、それでも落ち着く場所だった。


「ね」


あなたが、不意に言った。


「幸せって、分かる?」


質問の形をしているけれど、答えを求めていないことは分かっていた。あなたは、歩きながら、自分の足元を見つめている。


「分からない」


そう言うと、あなたは頷いた。


「だよね」


それ以上、何も言わなかった。

でも、その一言で十分だった。


あなたはよく、こうやって核心に触れる寸前で立ち止まる。踏み込めば簡単なのに、あえて手前で止まる。その距離感が、あなたと世界との付き合い方なんだと思った。


しばらく歩いてから、あなたがぽつりと笑った。


「でもさ」


「うん」


「分からないって言えるのは、悪くない気がする」


それは、慰めにも、結論にも聞こえなかった。

ただ、事実を置いただけの言葉だった。


帰り道の途中、踏切の音が鳴り始めた。遮断機が下りて、赤いランプが点滅する。電車が通り過ぎるまで、二人並んで立ち止まる。


その間、あなたは何も言わなかった。

ただ、遠くを見るような目をしていた。


何を考えているのか、聞こうと思えば聞けた。

でも、聞かなかった。


言葉にしないことで、保たれるものもある。

それを、あなたから教わった気がした。


電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。

歩き出すと、あなたはいつもより少しだけ近い位置にいた。


影が、ほとんど重なっている。


「寒くない?」


突然、そう聞かれた。


「大丈夫」


そう答えると、あなたは納得したように頷いた。

それ以上、気にする様子はなかった。


家の前まで来て、別れる。

いつものように、軽く手を振る。


「またね」


「うん、また」


それだけで十分だった。


ドアを閉めて、靴を脱ぐ。

部屋の中は、昼間の熱がまだ残っている。電気をつけずに、しばらくそのまま立っていた。


足らないピースのことを考える。

それが何なのか、まだ分からない。


でも、少なくとも今は、

欠けたままでも歩けている。


その事実だけが、

静かに、胸の奥に残っていた。




第三章

あなたの側



言葉にしないのは、癖みたいなものだ。


言えばいいことほど、口に出す前に形が崩れる気がしてしまう。

簡単な言葉ほど、雑に扱ってしまいそうで、どうしても慎重になる。


本当は、そんなに深く考える必要なんてないのかもしれない。

それでも、考えてしまう。


帰り道を遠回りするのも、理由は後付けだ。

景色がいいとか、静かだからとか、それらは全部嘘じゃないけれど、核心ではない。


ただ、少しだけ時間が欲しいだけだった。

隣を歩くその人と、同じ速度で考えるための時間。


並んで歩いていると、影が伸びる。

高さの違う二つの影が、揺れながら続いていくのを見るのが好きだった。

あれが肩なのか、頭なのか、よく分からないところも含めて。


たまに、ぶつかる。

そのたびに、少しだけ現実に引き戻される。


自分は、壊れやすい人間だと思う。

大きな出来事があったわけじゃないのに、勝手に積もって、勝手に限界を迎える。

その自覚があるからこそ、平気な顔をしていようとする。


でも、そばにいるその人には、だいたい全部バレている。

くしゃっと笑った瞬間に、もう終わりだ。


世界が急に暗く見える日がある。

幸せそうな風景ほど、遠く感じてしまう日がある。

そんなとき、必要なのは複雑な答えじゃない。


驚くくらい簡単な言葉で、立ち直れることを、自分は知っている。


それを、あの人も知っている。

だから、ちょうどいい言葉を、ちょうどいい隙間に置いてくる。


怖いくらい、正確に。


近くにいるのに、遠い。

遠いのに、逃げられない。


それが不安で、同時に救いだった。


足らないピースのことを、よく考える。

自分に欠けているもの。

持っていないまま、生きてきたもの。


あの人は、気づいていないかもしれないけれど、

自分にとっては、すでにいくつものピースを渡している。


それが、依存なのか、信頼なのかは分からない。

たぶん、どちらでもある。


「幸せになってほしい」


そう言われるたび、胸の奥が少しだけ痛む。

そんな資格があるのか、分からないからだ。


それでも、否定はしない。

否定されたら、その人が自分を責める気がする。


だから、くしゃっと笑う。

いつも通りに。


足らないままで、生きていく。

分からないまま、誰かと並ぶ。


それでも、今は歩けている。

それだけで、十分だと思っている。


この関係に、名前はつけない。

終わりも、完成も、決めない。


ただ、今日もまた、

同じ帰り道を選ぶだけだ。




第四章

すれ違いの音



その日は、帰り道に雨が降っていた。

強い雨じゃない。ただ、傘を差さないと確実に濡れる程度の、曖昧な降り方だった。


駅前で待ち合わせると、あなたは少しだけ疲れた顔をしていた。

それでも、いつも通りに笑う。


「雨だね」


「うん」


それだけの会話。

それだけで済むはずだった。


歩き出してすぐ、あなたはまた脇道に入ろうとした。

いつもなら何も言わずについていくところだったけれど、その日は、足が止まった。


「今日は、こっちじゃなくていいんじゃない?」


自分でも驚くくらい、淡々とした声だった。


あなたは振り返る。

一瞬だけ、何かを探すような目をした。


「……どうして?」


責める調子ではなかった。

ただ、理由を知りたがっているだけの声。


「濡れるし」


それは事実だった。

脇道は街灯も少なくて、水たまりも多い。


あなたは少し考えてから、首を傾げた。


「でも、こっちの方が静かだよ」


それは、いつもの答えだった。

いつもなら、それで終わっていた。


「たまには、普通でいいんじゃない?」


言ってから、少しだけ後悔した。

“普通”という言葉が、思っていた以上に強く響いたから。


あなたは、すぐには何も言わなかった。

雨音が、その沈黙を埋める。


「普通って、何?」


低い声だった。

怒っているわけじゃない。でも、距離があった。


「……分からない」


正直な答えだった。

でも、あなたはそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。


「そっか」


それ以上、言葉は続かなかった。

あなたは、結局脇道には入らず、大通りの方へ歩き出した。


その背中を見ながら、胸の奥がひっかかる。

勝ったような気もしなければ、負けた気もしない。


ただ、何かを置き去りにした感覚だけが残った。


信号待ちの間、二人とも黙っていた。

赤い光が、雨に滲んで揺れる。


「ね」


あなたが、ぽつりと言った。


「無理しなくていいよ」


何についての言葉なのか、すぐには分からなかった。


「遠回りも、考えるのも、黙るのも。

全部、私の癖だから」


その言い方は、少しだけ他人行儀だった。


「合わせなくていい」


続けてそう言って、あなたは前を向く。


それが、優しさなのは分かっていた。

でも同時に、線を引かれたようにも感じた。


「合わせてたわけじゃない」


反射的に、そう返していた。


あなたは驚いたようにこちらを見る。

ほんの一瞬、言葉に詰まった顔をした。


「じゃあ……」


言いかけて、やめる。

その“やめた”ことが、何よりも重かった。


信号が青に変わる。

二人は、並んで歩き出す。


影は、まだ重なっていた。

でも、どこか不自然だった。


別れ際、あなたはいつも通りに言った。


「またね」


その声は、少しだけ硬かった。


「うん、また」


返事は出来た。

でも、胸の奥に、小さな音が残る。


カチリ、と何かがずれた音。


壊れたわけじゃない。

ただ、今まで噛み合っていた歯車が、

ほんの少しだけ、位置を変えただけ。


それでも、その違和感は、

思っていたよりも長く、残った。




第五章

余波



次の日から、何かが大きく変わったわけじゃなかった。


連絡は来たし、返した。

待ち合わせもしたし、帰り道も一緒に歩いた。

笑顔もあったし、沈黙も、今までと同じように流れた。


それでも、確かに違っていた。


あの日の雨は止んでいた。

空は不自然なくらい澄んでいて、遠くの建物の輪郭までくっきり見える。

それがかえって落ち着かなかった。


あなたは、脇道に入らなかった。

何も言わずに、大通りを選ぶ。

それを指摘するのも違う気がして、こちらも黙っていた。


影は並んでいる。

でも、揺れ方が違う。

ほんの数センチの距離が、やけに遠く感じられた。


「今日は、どうだった?」


あなたが聞いてくる。

今までと同じ調子なのに、言葉が少しだけ整いすぎている。


「普通」


そう答えると、あなたは頷く。


「そっか」


それ以上、話は広がらなかった。

“普通”という言葉が、まだどこかに残っている気がした。


小さな違和感は、日常のあちこちに顔を出す。

コンビニで何を買うか、信号を渡るタイミング、歩く速度。

今までは気にしなかったことが、いちいち目につく。


あなたは、以前よりも言葉を選ぶようになった。

遠回りする前に、こちらを見る。

黙って待つ。


それが優しさだと分かるからこそ、余計に苦しかった。


合わせなくていい。

そう言われた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


合わせていたわけじゃない。

そう返した自分の声も、同じくらい残っている。


どちらも本音だった。

だからこそ、簡単に溶けない。


ある日、帰り道で、あなたがふと立ち止まった。


「ね」


呼ばれて、こちらも足を止める。


「最近、静かだね」


責める調子じゃなかった。

確認するみたいな声。


「そう?」


「うん」


それだけで、会話は終わった。

続きがある気配はあったけれど、あなたは言わなかった。


言わないことを選んだのか、

言えなかったのか、

その違いを考えるのは、もう癖になっていた。


別れ際、あなたはいつもより少しだけ早く背を向けた。

手を振る前に、歩き出す。


その背中を見ながら、

足らないピースのことを考える。


欠けているのは、言葉なのか。

それとも、勇気なのか。


埋めなくても歩けていた溝が、

少しだけ深くなった気がした。


それでも、不思議と終わりを想像することはなかった。

壊れたとも思わなかった。


ただ、波が引いたあとに残る、

濡れた砂の感触みたいなものが、

足元に広がっている。


乾くまで、時間がかかる。

でも、乾くことは知っている。


そう思えるくらいには、

この関係は、まだ続いていた。




第六章

前半:まだ話されていないこと



それは、帰り道の途中だった。


いつもの大通りから外れて、珍しくあなたの方から脇道に入った。

雨上がりの道は、まだ少し湿っていて、靴底が静かに音を立てる。


「前にさ」


あなたが言った。

前を向いたままで、こちらを見ない。


「ここ、よく通ってたんだ」


それだけだった。

“いつ”とか、“誰と”とか、何も付け足さない。


「一人で?」


そう聞くと、あなたは少しだけ首を振った。


「ううん。……前は、誰かと」


誰だったのかは、言わなかった。

聞かなかったのか、聞けなかったのか、自分でも分からない。


道の先に、小さな公園があった。

錆びた滑り台と、使われていないベンチ。

夜になると、誰もいない場所。


「ここで、よく考えてた」


「何を?」


一拍置いてから、あなたは答えた。


「どうして、言えなかったんだろうって」


それ以上は続かなかった。

でも、その一言で十分だった。


あなたが“大事なことを言わない人”なんじゃなくて、

言えなかった時間を抱えている人だと、初めてはっきり分かった。


過去の話なのに、

それはまだ終わっていない感じがした。


公園を抜けて、また道に戻る。

会話は自然と途切れた。


でも、その沈黙は、

今までとは少し違っていた。



話すつもりはなかった。


ただ、あの道を通っただけだ。

雨の匂いと、街灯の光が、記憶を引っ張り出した。


前は、誰かと歩いていた。

隣にいて、同じように黙って歩いていた人。


その人にも、大事なことは言えなかった。

言えば、何かが壊れる気がしていた。


結局、壊れたのは、言わなかったことそのものだった。


その経験があるから、

簡単な言葉ほど、怖い。


「好き」とか、「大丈夫」とか、

形がはっきりしている言葉ほど、

一度口にしたら戻れない気がする。


今、隣を歩くその人は、

何も聞かなかった。


それが、救いだった。


同時に、少しだけ苦しかった。


言えなかった過去と、

言わない現在が、

重なっている。


それでも、同じにはしたくなかった。


だから、ほんの少しだけ話した。

核心には触れずに、

輪郭だけを置いた。


足らないピースを、

全部渡してしまう勇気はない。


でも、

一つくらいなら。


それで、歩けなくなるなら、

それまでだ。


そう思いながら、

また、同じ帰り道を選んでいる。




第七章

言葉になる前



その日は、特別なことは何もなかった。


待ち合わせはいつも通りで、時間も場所も変わらない。

あなたは少し遅れて現れて、軽く手を挙げた。


「お待たせ」


「ううん」


それだけで、十分だった。


歩き出すと、風が少し冷たかった。

季節が、また一段階進んだことが分かる。

コートを着るほどでもないけれど、立ち止まると寒い。


あなたは、しばらく黙っていた。

考え事をしているときの、あの間。


遠回りもしないし、

かといって、大通りにこだわるわけでもない。

その中間みたいな道を選んで歩く。


「ね」


あなたが、珍しくこちらを見た。


「前のさ……」


そこで、一度言葉が止まる。

ほんの一瞬。

でも、はっきり分かるくらいの間。


「うん」


続きを促すと、あなたは小さく息を吸った。


「……いや、やっぱりいい」


そう言って、視線を戻す。


心臓が、少しだけ強く鳴った。

聞いてはいけない気もしたし、

聞かないと後悔する気もした。


「いい、って?」


思っていたよりも、声が低く出た。


あなたは、歩く速度を落とした。

完全に立ち止まるわけでもなく、

進み続けるわけでもない。


「言おうとしたことが」


また、止まる。


言葉が、喉の奥で形を作って、

それでも外に出てこないのが分かった。


「言ったら、たぶん」


「たぶん?」


「今までと、同じじゃなくなる」


その言い方は、怖がっているみたいでもあり、

覚悟を量っているみたいでもあった。


信号が赤に変わる。

二人並んで、立ち止まる。


車のライトが、濡れたアスファルトに反射する。

影が、足元で揺れる。


「同じじゃなくなるのは」


そう言いかけて、言葉を探す。


「悪いこと?」


あなたは、すぐには答えなかった。

その沈黙が、答えそのものみたいだった。


「……分からない」


正直な声だった。


それ以上、何も言えなかった。

青信号が点いて、

二人はまた歩き出す。


言葉は、そこにあった。

確かに、あった。


でも、拾われなかった。


別れ際、あなたは少しだけ迷ってから言った。


「今日は、ありがとう」


何に対しての言葉かは、分からない。


「こちらこそ」


そう返すと、あなたは安心したように笑った。


くしゃっとした、

よく知っているあの笑顔。


ドアを閉めたあと、

胸の奥がじんわりと痛んだ。


言葉になりかけたものが、

まだそこに残っている。


消えてはいない。

ただ、形を持たないまま、

宙に浮いている。


それでも、不思議と絶望はなかった。


言葉は、

出てこなかったわけじゃない。


まだ、出てこなかっただけだ。




第八章

時間が、言葉を追い越す



それから、季節がいくつか過ぎた。


連絡を取らなくなった、というほど極端ではない。

ただ、理由がなければ会わなくなった。

理由を作らなくても会えていた頃が、

いつの間にか遠くなっていた。


駅前の工事が終わって、

通路が少し広くなった。

よく立ち止まっていた場所に、

今はベンチが置かれている。


あの頃なら、

「ここ、変わったね」と言っていたと思う。

言ったあとで、

変わったのは場所じゃないことに気付いて、

少しだけ黙ったりして。


最近は、そういう想像もしなくなった。


新しい靴を買った。

歩きやすくて、音が静かなやつ。

前は、少しだけ音の鳴る靴を選んでいた。

並んで歩いたとき、

どちらが歩いているか分かる気がして。


今は、誰と歩くかより、

ちゃんと歩けるかどうかの方が大事だ。


ある日の夜、

コンビニで買ったコーヒーを飲みながら、

ふと、あなたの声を思い出した。


「無理しなくていいよ」


それは、

特別な場面じゃなかった。

何かを相談したわけでも、

泣いていたわけでもない。


ただ、少し疲れて見えた日。


当時は、

気遣いの一言だと思っていた。

その場をやり過ごすための、

軽い言葉だと。


でも今は、

違う聞こえ方をする。


無理しなくていい。

頑張らなくていい。

ちゃんと出来なくてもいい。


その全部を、

まとめて言われていた気がした。


時間は、言葉を置いていく。

でも、完全には置き去りにしない。


少し遅れて、

ちゃんと追いついてくる。


もし、あのとき

別の言葉を返していたら。

もし、あの夜

立ち止まっていたら。


そんな仮定は、

もう意味を持たない。


それでも、

意味だけは残る。


あなたは、

何も言わなかった人じゃない。


たくさんのことを、

言葉にしないまま

ちゃんと置いていった人だ。


今になって、

それを拾っているだけだ。


コーヒーは、もう冷めていた。

それでも、

不思議と飲めた。


苦さも、

温度も、

今の自分には

ちょうどよかった。


あのとき、

言われなかったのだと思っていた。


でも、

あのとき、言われていたのだと思う。




終章

同んなじ台詞



それから、さらに時間が経った。


何年、というほどはっきり数えられるわけじゃない。

ただ、振り返らない日が増えて、

振り返っても立ち止まらなくなった。


生活は続いている。

特別じゃないけれど、悪くもない。


朝はちゃんと起きて、

夜はそれなりに眠る。

泣くことは減ったし、

笑うことも増えた。


ある日、

少しだけ疲れた顔をした人が

目の前にいた。


理由は聞かなかった。

聞かなくても、

なんとなく分かることがある。


言葉を探す前に、

口が動いた。


「無理しなくていいよ」


声は、思ったより自然だった。

考えた言葉じゃない。

でも、軽くもなかった。


相手は一瞬、

驚いたような顔をしてから、

少しだけ肩の力を抜いた。


その様子を見て、

胸の奥が、静かに鳴った。


ああ、と。


あのとき、

自分が受け取っていたものは、

これだったのかもしれない。


言葉は、

形を変えて残る。


誰かから誰かへ、

意味だけを渡しながら。


足らないピースは、

全部揃うわけじゃない。


それでも、

誰かからもらった一つが、

別の誰かの欠けた場所に

ぴたりと嵌まることがある。


それだけで、

十分なのかもしれない。


帰り道、

影がふたつ、

少し離れて伸びていた。


並んでいなくても、

重なっていなくても、

同んなじ方向を向いている。


それを見て、

なぜか、

くしゃっと笑ってしまった。


理由はない。

でも、確かだった。


この世界は、

相変わらずひんやりしている。


それでも、

誰かの言葉が、

ほんの少しだけ

温度を残していく。


それは、

物語みたいな奇跡じゃない。


ただ、

続いていく、ということだ。

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