第1話:透明人間
俺の名前は、レナート・フォン・カルヴァ。
一応、このカルヴァ王国の第三王子…ということになっている。
だが、宮廷内で俺の名を呼ぶ者はいない。
使用人たちは俺の横を通り過ぎる時、そこに置物でもあるかのように視線を逸らす。父である国王にいたっては、たまに廊下ですれ違っても「…誰だ、その小汚い少年は?」と首を傾げる始末だ。
それもそのはず。俺の母は、その辺にいた平民の娘だった。
手を出した国王が飽きた後は、王宮の隅にある廃屋同然の離れに押し込められ、そこで俺を産んで、俺が物心つく前に流行り病で死んだ。
それ以来、俺の肩書きは「王子」から「透明人間」に変わった。
「……今日も、これだけか」
俺の目の前に置かれたのは、皿と呼ぶのもおこがましい木の板。
その上に載っているのは、石鹸のように硬く乾燥したパンの切れ端と、具が一切見当たらない、お湯に塩を振っただけのようなスープだ。
パンの端には、うっすらと緑色のカビが芽吹いている。
これを「王族の食事」だと言ったら、近所の農家でも鼻で笑うだろう。
だが俺は慣れた手つきでカビの部分をナイフで削ぎ落とし、スープにパンを浸してふやかした。
(よし、これでなんとか噛み切れる。…はぁ、肉が食いたい)
俺の望みは、そんなに贅沢なものじゃない。
パサパサしていないパン。
脂身の乗った厚切りの肉。
ついでに、できれば甘い果物。
それさえあれば、俺はこの「いないもの扱い」される毎日だって、ニコニコしながら耐えてみせる自信があった。
そんな俺の慎ましい食事タイムをぶち壊したのは、離れの扉を蹴り破らんばかりの勢いで入ってきた足音だった。
「レナート! あんた、生きてるんでしょうね!」
キンキンと耳に響く高音。
現れたのは第二王女、エルゼ・フォン・カルヴァ。
俺の異母姉であり、俺を「動くゴミ箱」くらいにしか思っていない女だ。
豪華なドレスを翻してやってきた彼女の背後には、数人の侍女たちが困り果てた顔で控えている。
「…姉上、ノックくらいしてください。せっかくパンがふやけてきたところなんです」
「そんな汚らしい餌の話はどうでもいいわ! 大変なのよ、聞いてるの!? あの『野蛮な死神』がいるタヴェルニエ帝国に、私が嫁ぐことになったのよ!」
エルゼ姉上はヒステリックに叫びながら、俺の細い肩を掴んで揺さぶった。
タヴェルニエ帝国。
ここカルヴァ王国が長年戦争で負け続けている、大陸最大の軍事国家だ。
そこの皇帝の弟、将軍フェルディナンドに王女を嫁がせることで、なんとか和平を乞う…という話は、透明人間の俺の耳にも届いていた。
「おめでとうございます。帝国なら、毎日美味しいものが食べられそうですね」
俺が心底羨ましいと思って言った言葉に、姉上は般若のような形相で食いついた。
「美味しいもの!? あんた、馬鹿じゃないの!? あそこは魔物みたいな大男がのし歩いて、朝から晩まで血の滴るような生肉を貪り食ってるような国なのよ! あんな『死神』に嫁いだら、初夜の前に殺されて食べられちゃうわ!」
(…肉が食えるなら最高じゃないか。焼いてあればもっといいけど)
そう思ったが、口には出さない。
姉上は、俺の顔をじっと見つめると、何やら不気味な笑みを浮かべた。
「そうよ…あんた、私と背丈が同じくらいじゃない」
「は?」
「女装すればいいのよ!きっとバレないわ。あんたみたいな透明人間、どこに消えても誰も気にしないし…。そうよ、こうしましょ! あんたが私の代わりに、帝国へ行きなさい!」
これが、俺の人生が終わりに向かって加速し始めた瞬間だった。
普通なら、ここで全力で拒否するだろう。
相手は恐ろしい帝国将軍。バレれば死。バレなくても、一生を女として偽って敵国で過ごすのだ。
だが、当時の俺の頭を占めていたのは、もっと切実な、原始的な欲望だった。
(帝国…将軍の奥方かぁ…。ということは、毎食、カビてないパンと肉が食える…?)
「……姉上。本当に、帝国に行けば美味しい肉が食べられるんでしょうか」
「ええ、そりゃあもう! 太って動けなくなるくらい食べさせられるに決まってるわ!」
姉上のその言葉だけで、俺の決意は固まった。
「わかりました。身代わり、引き受けます」
こうして、一人の飢えた王子が、史上最大の「国家詐欺」に足を踏み入れることになったのである。
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