第2話:ノイズの向こう側
1. 噛み合わない会話
「でさ、そのパスタがマジで映えるわけよ。超ヤバくない?」
「うわー、行きたい! 週末空いてる?」
オフィスの休憩スペース。
徹は、コンビニのおにぎりを水で流し込みながら、同期たちの会話をぼんやりと聞いていた。
彼らの声が、ガラス越しに聞くみたいに遠い。
(……何がヤバいんだろ)
徹の目には、スマホの画面に映ったパスタが、ただの「炭水化物と油脂の混合物」に見えてしまう。
それを囲んで盛り上がっている同期たちが、決められたセリフを喋る村人のように見えてしまう。
「神崎も行くっしょ?」
話を振られて、徹はビクリとした。
「え? ああ……俺は、パスで」
「ノリ悪いなー。最近お前、なんか暗くない? 事故の後遺症?」
みんなが笑う。 悪気はないのだ。
彼らは、この世界のルール(常識)の中で、正しく楽しんでいるだけだ。
徹は曖昧に笑って、席を立った。
(暗い、か)
違うんだ。
ただ、みんなが楽しんでいるこの世界の「画質」が、俺にはちょっと粗く見えすぎているだけなんだ。
重力に縛られ、他人の評価に縛られ、それでも笑顔を作らなきゃいけないこの場所が、息苦しくて仕方がない。
俺だけが、違うゲームをやらされている気がする。
その疎外感が、胃の中で冷たい鉛になっていた。
2. エースの歪み
午後。
営業部のエース、松島(まつしま)がオフィスに戻ってきた。
「ただいま戻りました! 契約、取れましたよ!」
爽やかな笑顔。パリッとしたスーツ。 フロアが沸く。
「さすが松島!」
「やるなー!」
だが、徹は顔をしかめた。
(……うわ、なんだあれ)
松島の周りだけ、空気が陽炎(かげろう)みたいに歪んで見えたからだ。
みんなには見えていないらしい。
でも、徹の目には、松島が歩くたびに、キキキッ……という、黒板を爪で引っ掻くような不快なノイズが走っているのが見えた。
幽霊じゃない。生きている人間だ。
なのに、あの夜見た女の幽霊よりも、よっぽど形が崩れかけている。
「神崎さん、お疲れ様です!」
松島が、徹のデスクの横を通った。
完璧な笑顔。 でも、徹には見えてしまった。
彼の笑顔の裏側で、彼の魂みたいなものが、重たすぎる荷物に押し潰されて、「助けて」と悲鳴を上げているのが。
(……見なきゃよかった)
徹はディスプレイに視線を戻した。
関わりたくない。
幽霊一匹消したくらいで、何かが変わるわけじゃない。
他人の人生の歪みなんて、俺には関係ない。
3. 喫煙所の周波数
逃げるように喫煙所に入ると、先客がいた。
松島だった。
さっきまでの輝くような笑顔は消え、死んだような顔で煙を吐いている。
徹が入ってきたことに気づくと、松島は慌てて背筋を伸ばし、またあの「完璧な仮面」を被ろうとした。
「あ、神崎さん。お疲れ様です! いやー、今日のクライアントが強敵で……」
キキキッ。 ノイズが跳ね上がった。
徹は、こめかみが痛くなった。
無理をしている。心と体が乖離(かいり)しすぎて、エラーを起こす寸前だ。
見ていて痛々しい。
放っておけばいいのに、その不快な音が、徹の口を勝手に開かせた。
「……なぁ、松島」
「はい?」
「お前さ、ちょっと……荷物、持ちすぎじゃない?」
松島がきょとんとする。
「荷物、ですか? 鞄ならデスクに……」
「いや、そうじゃなくて」
徹は、言葉を選んだ。
「メモリ」とか「タスク」とか言っても伝わらない。
もっと、今のこいつに分かる感覚で。
「今、ここにいない奴の機嫌とか、明日の売上とか、来年の出世とか。……そういう、今ここに『ない』ものまで、全部カバンに詰め込んでないか?」
松島の手が止まった。
「……え?」
「見てて、重そうなんだよ。お前」
徹は、自分の胸元を指差した。
「そんなに詰め込んだら、パンクするだろ。……今、ここで吸ってるタバコの味だけでいいんじゃねーの? リアルなのは」
哲学的なことを言いたいつもりはなかった。
ただ、システムエンジニアとして、
「処理落ちしてるから、余計なウィンドウ閉じろよ」
と言いたかっただけだ。
でも、それを人間の言葉にすると、そんな不格好なアドバイスになった。
4. 静寂の瞬間
松島は、ポカンとしていた。
しばらくして、ふっと力が抜けたように肩を落とした。
「……変なこと言いますね、神崎さん」
「まあね。事故で頭打ったから」
徹は自嘲して、新しいタバコに火をつけた。
沈黙が流れる。
でも、さっきまでの不快なノイズ音は消えていた。
松島が、深く、長く煙を吐き出す。
その横顔は、さっきの作り笑顔よりも、ずっと疲れていて――ずっと人間らしくはっきりとして見えた。
「……タバコの味なんて、久しぶりに感じました」
松島がボソッと言った。
「苦いっすね」
「おう。体に悪い味がするだろ」
「はい。……でも、なんか落ち着きます」
徹には見えた。
松島の輪郭が、少しだけクッキリしたのを。
未来への不安や、他人からの評価という「実体のないデータ」を捨てて、今、ここにある「苦み」という現実(リアリティ)だけを受け取った瞬間。
彼のシステムが、正常稼働を取り戻したのだ。
(なんだ。……生きている人間も、一緒か)
幽霊も、人間も。
余計な執着やバグを取り除いてやれば、本来の形に戻る。
徹は、なんとなく分かってしまった。
「ありがとうございました。なんか、軽くなりました」
松島は頭を下げて、喫煙所を出て行った。
その背中は、入ってきた時よりも、確かに軽やかに見えた。
5. 小さなエラーログ
一人残された徹は、吸い殻を灰皿に押し付けた。
「……感謝されるようなことじゃねーよ」
ただ、自分の目の前のノイズがうるさかったから、指摘しただけだ。
でも、掌には、妙な感触が残っていた。
さっき、松島が「苦いっすね」と言った時の、あの一瞬の空気の緩み。
あれは、悪くなかった。
この世界は重くて、不自由で、バグだらけだ。
俺はそこで、相変わらず浮いている。
でも、たまにはこうやって、絡まったコードを解いてやるくらいのことは、できるのかもしれない。
「……仕事、戻るか」
徹は重たいドアを開けた。
オフィスの喧騒が戻ってくる。
相変わらず、世界は灰色に見える。
それでも、さっきまでの窒息しそうな孤独感は、ほんの少しだけ薄れていた。
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