来なかった午後と、言えなかった理由

その日、遥はアトリエに来なかった。


 連絡もなかった。

 インターホンが鳴る気配もない。


 紬は、午前中から作業台の前に立っていたが、布に手を伸ばすたび、集中が途切れた。

 時計を見る。

 まだ、早い。

 きっと、放課後は遅くなると言っていた気がする。


 ——言っていた、だろうか。


 昼を過ぎても、音はしない。

 外は晴れている。


 紬は、スマートフォンを手に取る。

 画面を開いて、閉じる。

 メッセージ欄には、遥の名前がある。


 「今日は来ないんですか」


 それだけの文を、打っては消す。


 聞いてしまえば、終わってしまう気がした。

 何が終わるのかは、分からない。

 でも、取り返しがつかない気がした。


 午後三時。

 いつもなら、遥が来ている時間。


 紬は、ミシンを動かし始めた。

 無理に、音で思考を塗りつぶす。


 そのとき、電話が鳴る。


「……はい」


『紬ちゃん?』


 杉原だった。


『今、大丈夫?』


「……はい」


 本当は、全然大丈夫じゃない。


『急で悪いんだけど、来週の展示の話、進めたいの』


 来週。

 そんな話、聞いていない。


「……展示?」


『そう。若手の枠が空いたの』


 母の名前を出される前に、言葉が続く。


『あなたの服、見せるチャンスよ』


 紬は、アトリエの奥を見る。

 遥が座っていた場所。


「……分かりました」


 気づけば、そう答えていた。


『よかった』


 電話が切れる。


 紬は、膝の力が抜けそうになるのを、作業台に手をついて堪えた。


 ——決めてしまった。


 誰にも相談せずに。

 遥にも。


 夕方になっても、遥は来なかった。


 夜。

 アトリエの灯りが、やけに明るい。


 その頃、遥は、駅前にいた。


 短大の説明会。

 資料。

 話。

 未来。


 帰りの電車の中で、スマートフォンを何度も見た。


 紬さんからの連絡は、ない。


 ——やっぱり。


 胸の奥が、静かに冷えていく。


 「来なくなっても、平気」


 あの言葉が、何度も蘇る。


 アトリエに寄ろうか、一瞬迷った。

 でも、足は動かなかった。


 今日は、行かない。

 そう決めた。


 それは、小さな抵抗であり、確認だった。


 翌日。

 遥は、いつも通り学校に行った。


 紬からの連絡は、なかった。


 放課後、アトリエに向かう途中、足が止まる。

 引き返した。


 ——私がいなくても、進んでる。


 その考えが、頭から離れない。


 三日目の夜。

 紬は、完成したサンプルを眺めていた。


 展示用の服。

 母の名前を背負う服。


 悪くない。

 むしろ、よくできている。


 でも。


 この服を、遥は見ていない。


 インターホンが鳴ったのは、そのときだった。


 心臓が、跳ねる。


「……はい」


 扉を開けると、遥が立っていた。


「こんばんは」


 声が、少し硬い。


「……久しぶりですね」


 三日ぶり。

 たったそれだけなのに、遠い。


「……どうして」


 紬は、聞きたかった。


「来なかったんですか」


 遥は、少し黙ってから言う。


「……用事があって」


 嘘だった。

 でも、全部は言えなかった。


「……そうですか」


 それ以上、紬は聞かなかった。


 聞く資格がない気がした。


 アトリエの中は、妙に静かだった。

 以前の、安心する静けさとは違う。


「……新しい服ですか」


 遥が、サンプルを見る。


「……はい」


「展示用?」


 紬の肩が、わずかに揺れる。


「……来週、あります」


 初めて、言った。


「決まりました」


 遥は、驚いた顔をした。


「……聞いてません」


「……言ってませんでした」


 事実だった。


「どうして」


 遥の声が、少しだけ高くなる。


「……忙しかったので」


 それも、嘘だった。


 本当は、

 言えば、何かが変わってしまう気がした。


 沈黙。


「……私」


 遥は、静かに言う。


「進路の説明会、行きました」


 紬の胸が、痛む。


「そう、ですか」


「はい」


 互いに、報告だけをする。

 相談ではない。


 その距離が、決定的だった。


「……紬さん」


 遥は、言葉を選ぶ。


「私たち」


 喉が鳴る。


「今、同じ場所に、立ってますか」


 紬は、答えられなかった。


 立っていない。

 でも、離れたくない。


 その矛盾を、言葉にできない。


「……ごめんなさい」


 遥は、そう言って、頭を下げた。


「今日は、帰ります」


 扉が閉まる。


 紬は、その場に立ち尽くす。


 追いかけるべきだった。

 引き留めるべきだった。


 でも、足が動かない。


 ——失うことに、慣れすぎている。


 その夜、紬は初めて、母のノートを閉じた。


 ページをめくる気になれなかった。


 一方、遥は、帰り道で立ち止まり、涙をこぼした。


 何が欲しかったのか、分からない。

 でも、確かなことがある。


 私は、選ばれたかった。


 服でも、仕事でもなく。

 人として。


 二人は、まだ別れていない。

 でも、もう「同じ時間」を生きていない。


 破局は、

 こうして静かに、音もなく始まる。

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