外に出る服、戻ってくる人
翌日、ミシンの音は昼過ぎまで鳴らなかった。
紬は布を裁つことも、型紙を引くこともできず、作業台の前に立ったまま時間をやり過ごしていた。
理由ははっきりしている。
遥が、あのワンピースを着て外に出るからだ。
学校に着ていくと言っていた。
制服ではない、紬が作った服を、同年代の人間が集まる場所へ。
それは、服が評価されるということでもある。
同時に、紬自身が否応なく世界に触れさせられるということだった。
——大丈夫だ。
——あれは、ただの試作品。
何度も心の中で繰り返す。
それでも、落ち着かない。
インターホンが鳴ったのは、夕方だった。
いつもより少し遅い。
「……どうぞ」
扉が開く。
「ただいま、です」
遥は、少し疲れた声で言った。
ワンピースを着ている。
上にカーディガンを羽織っているが、布の落ち方は隠せない。
「……おかえりなさい」
そう言ってから、紬は気づいた。
今まで、誰かに「おかえり」と言ったことがなかったことに。
遥は靴を脱ぎ、こちらに近づいてくる。
「暑かったです」
「……今日は、暖かいですから」
言葉が、よそよそしい。
視線は、どうしても服に向いてしまう。
「どうでしたか」
我慢できずに、聞いた。
「学校?」
「……はい」
遥は少し迷ってから、笑った。
「たくさん、聞かれました」
胸が、ひやりとする。
「どこで買ったの、とか。可愛いね、とか」
紬の中で、何かが強く鳴った。
「……変なことは」
「言われてません」
遥はすぐに続ける。
「むしろ、びっくりされました」
鞄を置きながら、遥は言った。
「私、ああいう服、着ないイメージだったみたいで」
「……そう、ですか」
「でも」
一拍置いて。
「嬉しかったです」
遥は、胸元の布を軽くつまんだ。
「これを着てると、背筋が伸びる感じがして」
その言葉に、紬は何も返せなかった。
母の声が、重なったからだ。
——服はね、着る人の一日を支えるの。
「……それなら、よかった」
それだけが、精一杯だった。
遥は着替えず、そのまま作業を手伝い始めた。
在庫のチェック。タグの確認。梱包。
服の流れが、少しだけ変わったように見える。
それは錯覚かもしれない。でも、紬には確かに感じられた。
「……今日」
作業の合間に、遥が言った。
「先生に、褒められたんです」
「服を、ですか」
「はい。TPOに合ってるって」
紬は、思わず手を止めた。
服が、学校という場所で、役割を果たした。
それは、紬が今まで避けてきた世界のひとつだ。
「……それは」
どう言えばいいか、分からない。
「嬉しいですね」
結局、そう言った。
「はい」
遥は、まっすぐにうなずいた。
しばらくして、遥がぽつりと聞いた。
「紬さんは」
「……はい」
「この服が、外に出るの、怖くなかったですか」
胸の奥を、正確に突かれた。
「……怖いです」
正直に言う。
「今も」
遥は、それ以上聞かなかった。
ただ、作業を続ける。
それが、ありがたかった。
日が落ち、外が暗くなっても、二人は同じ空間にいた。
以前なら、考えられないことだ。
「……今日、泊まってもいいですか」
唐突に、遥が言った。
「え」
「遅くなっちゃって」
時計を見る。
確かに、終電まではまだ時間があるが、遅い。
「……構いません」
そう答えた自分に、驚く。
簡易的なソファ。
ブランケット。
ここは、誰かを迎えるための場所ではなかったはずなのに。
遥はワンピースを脱ぎ、丁寧に畳んだ。
「ここに置いていいですか」
「……はい」
服が、机の上に置かれる。
外の空気を吸って、戻ってきた服。
少しだけ、違う匂いがする。
「今日」
遥が、静かに言う。
「この服を着てる間、ずっと思ってました」
「……何を」
「紬さんのこと」
心臓が、跳ねる。
「作ってるとき、どんな顔してたのかな、とか」
遥は、紬を見た。
「大切にされてるって、分かるんです」
服を通して、全部見透かされている気がした。
「……それは」
仕事だから、とは言えなかった。
「私」
紬は、ゆっくり言葉を選ぶ。
「人に、渡す服を、作るのが、怖かった」
「……はい」
「母が、作っていたから」
初めて、ここまで話した。
「母の代わりになるみたいで」
遥は、何も言わない。
「でも」
服を見る。
「あなたが着て、戻ってきて」
言葉が、震える。
「……戻ってくる服も、あるんだって、思えました」
遥の目が、少し潤んだ。
「また、着ます」
即答だった。
「何度でも」
その言葉は、約束だった。
その夜、紬は久しぶりに、夢を見た。
母が出てくる夢ではない。
誰かと並んで、歩いている夢だった。
翌朝、遥は制服に着替えて帰っていった。
「また来ます」と言って。
扉が閉まったあと、紬はミシンの前に座る。
新しい布を、手に取る。
今度は、誰のために作るか、はっきりしている。
外に出るための服。
戻ってくる場所を、失わない服。
そして。
誰かと一緒に、生きるための服。
ミシンの音が、静かに、確かに鳴り始めた。
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