測るということ
翌日も、彼女は来た。
昨日と同じ時間、同じインターホンの音。規則正しすぎて、こちらの生活が見透かされているような気がする。
「……どうぞ」
声だけで応じると、扉の向こうで小さく息を吸う気配がした。
「こんにちは。昨日の続き、ですよね」
はい、という返事を、私は喉の奥で飲み込む。
昨日、彼女が帰ったあと、部屋は確かに元の静けさに戻った。でも、その静けさは以前より薄かった。服の隙間に、彼女の声が残っていた。
今日は在庫整理の続きと、簡単な検品。
そう説明すると、彼女は素直に頷き、手袋をはめた。
作業は順調だった。
彼女は覚えが早く、服の扱いも変わらず丁寧で、私が声を荒らげる理由は一つもなかった。
「このワンピース、少しだけ丈が違います」
箱を指差しながら言われ、私は立ち上がった。
「……それは、試作です」
「試作?」
「量産前に、バランスを見るための」
無意識に、説明していた。
服の話になると、言葉が勝手に出てくる。人の話は苦手なのに。
「着た人の動きで、印象が変わるので」
「へえ……」
彼女はワンピースを持ち上げ、空中で軽く揺らした。
「じゃあ、本当は着てみないと分からないんですね」
その一言で、胸がざわついた。
「……そう、ですね」
着る。
他人が、この服を。
母のブランドは、基本的に受注生産だった。モデルに着せて撮影することもあったが、それもずっと前の話だ。今は、誰かが着る前の服だけが、この部屋にある。
「……あの」
気づけば、彼女がこちらを見ていた。
「もし、必要なら。私でよければ」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「着る、っていうの」
心臓が、一拍遅れて鳴った。
「……それは、仕事じゃありません」
反射的に言う。
「でも、昨日言ってましたよね。丈を見るための試作だって」
彼女は引かない。
無邪気というより、真剣だった。
「モデルじゃなくても、いいなら」
私は視線を逸らした。
彼女の身体に、布を当てる。測る。触れる。
そんなこと、ずっとしてこなかった。
「……今日は、必要ありません」
しばらくの沈黙のあと、彼女は小さく「わかりました」と言った。
作業に戻る。
ミシンは使わない日だったのに、足踏みの癖が抜けず、ペダルを探してしまう。
「学校、今日は早いんですか」
私から話題を振るなんて、珍しい。
「テスト期間なので」
「……大変ですね」
「まあ、ほどほどです」
彼女は笑う。
「ここに来ると、違う世界みたいで」
また、その言い方だ。
「学校は、息が詰まることも多くて。でもここは……」
言葉を探すように、一度服に目を落とす。
「時間の流れ方が、違いますよね」
私は何も答えられなかった。
ここは、止まっているだけだ。
作業が一段落した頃、彼女が言った。
「採寸、必要なときは言ってください」
それは約束のようにも、宣言のようにも聞こえた。
「逃げませんから」
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……どうして、そこまで」
思わず、問いが漏れた。
「普通、こういう場所、怖くないですか」
服ばかりの部屋。外界と切り離された空間。
私自身が、怖いと思われて当然なのに。
彼女は少し考えてから答えた。
「怖いというより……」
ゆっくりと。
「大事なものが、たくさんある場所だなって」
その言葉に、喉が詰まった。
母の服。
私の時間。
守れなかったものと、まだ手放せないもの。
「……今日は、ここまでにします」
そう言うと、彼女は素直に手袋を外した。
「明日も来ます」
確認ではなく、断言だった。
「無理なら、言ってくださいね」
扉が閉まる音がして、部屋に一人になる。
静かだ。
でも昨日とは違う。
私は、作業台の上に置かれたワンピースを見る。
試作の一着。誰の身体にも合わせていない、未完成。
もし、彼女が着たら。
丈は、どこまで下がるだろう。肩は、きれいに落ちるだろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、私は慌てて首を振った。
これは仕事だ。
ただの、仕事。
でも。
次にインターホンが鳴るのを、私は少しだけ待っている。
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