【三】創世神話と終末神話の対応

 世界の始まりと終わりは、対になっている。

 これは単なる比喩ではない。創世神話の構造が、終末神話の有無と形を規定しているのである。


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 以前、「神を生む」というエッセイで、世界各地の創世神話を類型化した。

 その分析を簡単に振り返ろう。


 第一の類型は「虚無からの自己生成」である。

 エジプトのアトゥム、ギリシャのガイア、日本のアメノミナカヌシ。これらの神々は、誰かに創られたのではなく、自ら現れた。親はいない。原因もない。ただ「在る」ようになった。

 ただし、この類型の中にも重要な差異がある。アトゥムは自慰によって次の神々を生み、積極的に創造活動を行った。ガイアは単独でウラノス(天空)を産み、その後も活発に子を生んだ。しかし日本のアメノミナカヌシは「成り」、そして「隠れた」。何もしなかった。この違いが、後に重要になる。


 第二の類型は「巨人解体」である。

 北欧神話では、原初の巨人ユミルが殺され、その肉体から世界が作られた。肉は大地に、血は海に、骨は山に、頭蓋は天空に。インド神話のプルシャ、中国神話の盤古も同様である。巨人の犠牲によって、世界が生まれる。


 第三の類型は「宇宙卵」である。

 世界は巨大な卵から孵化した。インドのヒラニヤガルバ、フィンランドのカレワラ、中国の一部の神話。卵が割れ、上半分が天に、下半分が地になる。


 第四の類型は「出現」である。

 ネイティブアメリカンの諸族に見られる。人間は地底から地上へと「現れた」。創造されたのではなく、移動してきた。世界は階層構造をなし、人間はその間を移動する。


 第五の類型は「言葉による創造」である。

 『創世記』の「光あれ、と神は言った。すると光があった」。言葉が現実を生む。神の命令によって、無から有が生じる。これは他の類型とは質的に異なる、意志と言語による創造である。


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 これらの創世類型は、終末神話の有無と形に対応している。

 ただし、すべてが一対一で厳密に対応するわけではない。明確な構造的対応があるものと、傾向や親和性にとどまるものがある。


 最も明確な対応を示すのは、「言葉による創造」と「審判による終末」である。

 神が言葉で世界を創ったのなら、神は言葉で世界を終わらせる権限を持つ。「光あれ」と言って光を生んだ神は、「終われ」と言って世界を終わらせることができる。創造主は審判者でもありうる。だからアブラハム系宗教には「最後の審判」がある。創った者が、裁き、終わらせる。

 この対応は論理的に必然である。


 「出現」と「移行」の対応も明確である。

 人間が地底から地上へ移動してきたのなら、地上から次の世界へ移動することもできる。創世が「移動」なら、終末も「移動」である。ホピ族が「第四世界」から「第五世界」への移行を語るのは、創世神話の構造から自然に導かれる。世界は「壊れる」のではなく「移る」。


 「巨人解体」と「再生を伴う終末」の関係は、やや説明を要する。

 巨人解体型では、世界は巨人の「素材」からできている。ユミルの肉が大地になり、血が海になった。ここで重要なのは、素材は消滅しないということだ。巨人は死んだが、その体を構成していたものは形を変えて存続している。

 この発想は、終末にも及ぶ。世界が「終わる」ときも、素材は消滅しない。形を変えるだけだ。だから破壊は再構成を準備し、終末は再生につながる。北欧のラグナロクでは、世界が炎に包まれ、大地が海に沈む。しかし物語はそこで終わらない。やがて海から新しい大地が浮かび上がり、生き残った神々と人間が新世界を築く。

 素材からできた世界は、素材に還り、また素材から再生する。これが巨人解体型と再生型終末の親和性である。


 「宇宙卵」と循環的終末の関係は、より緩やかな親和性にとどまる。

 卵は割れたら元に戻らない。その意味で、宇宙卵神話が直接的に「循環」を含意するわけではない。

 しかし、インドの宇宙論には別の発想がある。宇宙は周期的に収縮し、すべてが溶け合って「未分化な状態」に戻る。そしてまた分化が始まり、世界が形成される。これは「卵が戻る」のではなく、「分化したものが未分化に戻り、また分化する」というサイクルである。

 宇宙卵型の創世神話を持つすべての文化が循環的終末を持つわけではない。しかし、「未分化から分化へ」という卵の孵化のイメージは、「分化から未分化へ、そしてまた分化へ」という循環的時間観と、ある種の親和性を持っている。


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 では、「虚無からの自己生成」には、何が対応するのか。

 ここで、類型内部の差異が決定的になる。


 エジプトのアトゥムは、自己創造の後、積極的に世界を形作った。彼は創造の主体であり、世界は彼の意志の産物である。行為する神がいる以上、終末にも行為がありうる。エジプトにも世界の終わりと再生の神話は存在する。


 しかし、日本のアメノミナカヌシはどうか。

 彼は「成り」、そして「隠れた」。何も創らなかった。後続の神々を生むことすらしなかった。『古事記』は「身を隠したまひき」と記すのみである。

 「光あれ」で世界を生んだりしない。「庭があったから草が生えたよ」ぐらいの自然さで、「世界があったから神が成ったよ」と言って始まる。それがアメノミナカヌシである。


 「神を生む」エッセイで、私はこう論じた。日本の原初神は創造神というよりも、存在の根源そのもの——概念化された「始まり」——なのかもしれない、と。彼らは世界の「背景」に溶け込んだ。


 世界を「創る」行為がなければ、世界を「終わらせる」行為もない。

 日本神話の原初神は、創造の主体ではなかった。だから日本には、終末の主体もいない。

 審判する神がいない。破壊を命じる神がいない。「終われ」と宣言する神がいない。

 神々は「成った」だけであり、世界もまた「成った」だけである。成ったものは、続く。終わらせる者がいない以上、終わりを宣言する者もいない。


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 この対応関係を整理しよう。


 言葉による創造——創造主が「言った」——終末も「宣言」される——審判型。

 出現——「移動」してきた——終末も「移動」——移行型。

 巨人解体——「素材」からできた——終末後も素材は残る——再生型。

 自然発生——誰も「しなかった」——終末も「しない」——終末なし。


 創世神話における「行為」の有無が、終末神話を決定する。

 神が何かを「した」場合——「創った」「殺した」「割った」「言った」——終末にも行為がある。神が「裁く」「壊す」「燃やす」。動詞には主語が必要であり、行為には行為者が必要である。

 しかし、神が何も「しなかった」場合——ただ「成った」だけの場合——終末にも行為がない。誰も終わらせない。なぜなら、そもそも誰も積極的に始めていないからだ。


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 「神を生む」エッセイで、私は日本神話の「無い」ことに注目した。

 日本神話には、宇宙卵を割る神がいない。巨人を殺す神がいない。「光あれ」と命じる神がいない。創造の劇的な瞬間がない。天地はすでに分かれており、神々はそこに「成る」。


 この「無いこと」を、欠落と見るか、特質と見るか。

 私は特質と見た。日本神話は、存在の始まりを「自然なこと」として描く。春に花が咲くように、神々は成る。庭に草が生えるように、世界に神が成る。そこには暴力も犠牲も、支配的な創造主もいない。

 世界は「ある」のではなく「なる」。静かに、自然に。


 終末神話の不在も、同じ構造から理解できる。

 世界が自然に成ったのなら、世界は自然に続く。終わらせる者がいない以上、終わりを宣言する者もいない。季節が巡るように、世代が交替するように、世界は続いていく。

 これは「終末がないこと」の説明である。しかし、まだ問いは残る。


 なぜ、日本人は終末を「必要としなかった」のか。


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 終末予言は「絶望の形式」だと、序で述べた。

 「こんな世界なら滅びてしまえ」という叫び。支配され、踏みにじられる者たちが、神の介入による逆転を願う。終末予言は、現状への拒絶であり、別の秩序への渇望である。


では、日本人は絶望しなかったのか。

 終末予言が「絶望の形式」であるなら、終末を持たなかった日本人は、絶望をどう処理したのか。

 そして、日本には本当に終末論がなかったのか。

 実は、あった。末法思想である。

 次章では、この輸入された終末論と、日本人独自の「絶望との向き合い方」を見ていく。


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