第十六話:暗黙のルール

 明朝の鐘が鳴れば、裁きが下る。


 その前に、私は“暗黙のルール”を殺さなければならない。


 この世界の暗黙のルール――「魔法なら何でもできる」という思考停止。


 それが残っている限り、犯人は霧の中に隠れられる。霧の中なら、小さな証拠ひとつで私を殺せる。


 だから私は、殿下の前で種明かしをすることにした。


 魔法ではなく、物理現象。


 氷は、溶ける。



 王太子殿下の執務室。夜明け前の蝋燭は、顔色を悪く見せる。眠れていない者ほど疲れて見えて、平気な顔の者ほど信用できなくなる時間だ。


 机の前に、殿下。横にガウェイン。少し後ろに文官。椅子の脇に医務官セレーネ。


 私は机の前に立った。


「ロザリア」


 殿下が短く言う。


「今度は仮説ではなく、結論を聞く」


 私は一礼し、顔を上げた。


「結論です、殿下。マリア様は氷魔法で殺されていません」


 文官が口を開きかけたが、殿下が指先を上げただけで黙った。


「凶器は、氷室で作られた“氷”です。魔法で直接生んだ氷ではありません」


 ガウェインが眉をひそめる。


「氷室の氷は、井戸水を凍らせたものだな」


「ええ。氷の魔道具が出す冷気で水を凍らせて、できた氷を氷室で保管する」


 私は頷く。


「つまり、氷そのものには魔力由来の元素が混じらない。魔力の痕跡が残りにくい“普通の氷”です」


 セレーネが静かに頷いた。


「外見上、魔力残滓の有無は判断が難しいですが……少なくとも、氷室の氷は“食用”として扱われています。魔力を元素化した氷は口にしない、という運用なら筋は通ります」


 殿下が指を組む。


「それが凶器になる、と?」


「なります」


 私は言い切り、机の上に布包みを置いた。


 中身は、氷室で許可を取って分けてもらった、小さな氷片だ。溶けないよう布で包んであるが、触れれば冷たい。


「刺したあと、溶けます」


 短い沈黙が落ちた。


 “溶ける”は単純だ。だから強い。


「刺し傷があるのに凶器がない。現場に残るのは水跡だけ。魔力の痕も残らない。これで最大の矛盾が消えます」


 文官が耐えきれず吐き捨てた。


「たかが氷で人を刺せるものか!」


「刺せますわ。尖ったものであれば」


 私は即答した。


「小さな釘でも、人は死ぬ。必要なのは“鋭さ”と“勢い”です」


 セレーネが淡々と補足する。


「傷は裂けたものではなく、刺突。剣で切り裂いた形ではありませんでした。刺し込む形の道具が合います」


「そして、勢いを作る方法は二つあります」


 私は指を二本立てる。


「一つは人の腕。もう一つは、風」


 ガウェインの目が細くなる。


「風魔法か」


「ええ。風術具でもいい。風魔法でもいい。重要なのは“加速”と“制御”です」


 殿下が低く問う。


「霜と、冷えすぎは?」


 私はその問いを待っていた。


「そこが偽装です、殿下」


 私は布包みを閉じ直し、言葉を整える。


「刺した瞬間、氷は体内で溶け始めます。さらに犯人が氷室の冷気を利用して遺体を冷やせば、霜は増え、遺体は必要以上に冷えます。氷魔法に見せかけるための演出になります」


 セレーネが頷く。


「外的な冷却が加われば、体温低下の印象は変わります。死後経過の推定が揺れる可能性はあります」


「この学院は鐘と祈祷で時間を測る。もともと曖昧です」


 私は続ける。


「そこへ“冷えすぎ”が加われば、ますます曖昧になる。犯人はそれを利用して、凶器が溶け切るまでの時間を稼げる」


 殿下は一度だけ目を伏せ、ゆっくり息を吐いた。


「……整合している」


 その一言で、部屋の空気が少し変わった。


 文官が悔しそうに唸る。


「だが、実行できる者がいるのか。氷室は厳重だろう」


「厳重に見えるだけです」


 私は即答した。


「鍵の運用には穴がある。貸し借りがあり、緊急用の扱いが曖昧。帳簿は改ざんされていました。運搬箱は“図書館の備品”が使われていた。運ぶ道具は守られていません」


 殿下が立ち上がり、短く命じる。


「氷室周辺の封鎖を強化。鍵と台帳を今夜中に洗い直せ。関係者を集めろ」


「了解」


 ガウェインが即答する。


 殿下は私を見た。


「ロザリア。お前の推理を採用する。主導権はお前に預ける」


 救いの言葉であり、刃でもある。


 外せば私の首が飛ぶ。


 私は一礼した。


「ありがとうございます、殿下。必ず“霧”を消します」



 氷室の前。


 扉の隙間から冷気が滲む。ここは氷の保管庫であり、犯人が使った“舞台裏”だ。


 私はガウェインの立会いで、鍵の貸出台帳を机に広げた。

 帳簿は改ざんできる。だからこそ、改ざんの痕を拾う。


 日付。用途。借り手。返却印。

 一行ずつ追っていき――指が止まった。


 ある一行だけ、借り手の欄が空白だ。


 ただの空白ではない。

 紙の繊維が微かに毛羽立っている。表面が荒れている。


 私は指先でそっと撫でた。


(削った)


 ガウェインも覗き込み、低く言う。


「……消したな。消し跡がある」


「ええ」


 私は頷いた。


「氷室の鍵が“いつ”“誰に”渡ったか。その決定的な行が消されています」


 胸の奥で、静かに鼓動が早くなる。


 貸し借りが慣習化していても、名前は残る。残るから責任が生まれる。

 なのに、名前だけが消えている。


 つまり犯人は知っている。


 ここが首を絞める縄だと。


 私は台帳を閉じ、ゆっくり息を吐いた。


「次は、関係者を集めます。氷室長、会計係、鍵に触れた者。運搬に関わる者。図書館の備品に触れた者」


 ガウェインが睨む。


「明朝までに間に合うのか」


「間に合わせます」


 私は言い切った。


「氷魔法という“分かりやすい悪役”に逃げるのは、もう終わりです。舞台装置が氷なら、舞台裏にいた人間は必ずいる」


 私は、削られた欄の空白を頭の中でなぞる。


 ここに名がないのは、名を書けない理由があるからだ。


 書けば困る名。

 借りたことにしたくない名。

 あるいは、貸した側も巻き込みたくない名。


 明朝の鐘までに、私はその名を引きずり出す。

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