神鳴の共鳴(シンクロニシティ) ―機鋼帝国ゼノフィアと八百万の祈り―
amya
1章
第1話:侵食される日常、奪われる声
その日は、いつにも増して空が低く感じられた。廃棄都市『スクラップ・バレー』の朝は、いつも重油の鼻を突く匂いと共に始まる。鉄の屑が山をなし、錆びた風が吹き抜けるこの街において、唯一の「潤い」は、広場の片隅にある古びた共同井戸に宿る小さな神様――『瑞(みず)の翁』の存在だった。
翁は、一滴の澄んだ水の中に宿るほどの、ひどく小さな神だ。しかし、彼が機嫌良く清らかな鈴の音を響かせている間だけは、汚染された廃水も飲用可能なまでにかろうじて浄化される。村人たちは朝一番に井戸へ向かい、翁に感謝を捧げることで、自分たちがまだ「人間」であることを確認していた。
アラタは、その日も壊れたラジオの部品を磨きながら、井戸の方から聞こえてくる神々の囁きに耳を傾けていた。だが、その穏やかな時間は、地平線の向こうから響いてきた不快な不協和音によって、無残に切り裂かれた。
――ズゥゥゥン、ズゥゥゥン……。
それは、大地の悲鳴を圧し潰すような、冷酷な進軍の足音だった。地平線から這い出てきたのは、機鋼帝国ゼノフィアの『徴発神狩り部隊』。巨大な蒸気機関を背負った多脚戦車を先頭に、鈍色の装甲を纏った兵士たちが、機械の歯車のような整然とした隊列で街へと流れ込んでくる。
「何だ……?徴発の時期には、まだ早いはずだぞ!」
村の長老が震える足で前に出たが、先頭の兵士は目も合わせない。兵士の背後にある排気管から、蒸気の噴射音(プシューッ!)が荒々しく放たれ、長老を煤(すす)まみれの煙が包み込んだ。
「通告する。当区域の霊的資源は、帝都の第拾四動力炉の維持のため、すべて接収する。抵抗は国家への反逆と見なす」
無機質な拡声器の声が響く。兵士たちが手にした「神捕り」の杖が、規則的な歯車の回転音を立てて展開された。彼らは迷わず、あの井戸へと向かった。
「待ってくれ!翁がいなくなったら、この街の飲み水は……!」
一人の女が井戸を庇うように立ちはだかったが、兵士は慈悲もなく、装甲を施した拳で彼女を突き飛ばした。地面に倒れた女の頬に、冷酷な凍り付くような鋼鉄の冷たさが触れる。
アラタは、自分の胸の奥が激しく掻き乱されるのを感じた。彼の耳には、井戸の奥で怯え、震える翁の悲鳴が、まるで割れたガラスのような音になって聞こえていた。
「……やめてくれ。そんな風に、力ずくで……!」
アラタが叫ぶが、その声は多脚戦車が吐き出す金属が擦れる不快な音にかき消された。
兵士の一人が、井戸の底へ「霊力吸引管」を突き立てた。
――ギギギギギギギッ……!!
それは、魂を直接ヤスリで削るような、聴くに堪えない音だった。井戸の底から、淡い蒼色の光が無理やり引きずり出されていく。瑞の翁は、必死に井戸の石に縋り付こうとしていたが、帝国の最新鋭の機械の前では、そのささやかな神力など無に等しかった。
「収穫完了。……質は低いが、潤滑油の冷却用にはなるだろう」
兵士が冷淡に告げ、小さな光の塊を鉛の箱へと封印した。箱を閉じる規則的な歯車の回転音が響く。
その瞬間、世界から「色」が消えた。
井戸の水は瞬く間に濁り、ドロドロとした黒い泥水へと変貌した。だが、それ以上に恐ろしかったのは、人々の変化だった。
井戸を囲んでいた村人たちの目から、光が消えていた。昨日まで冗談を言い合い、明日の夢を語っていた若者たちが、まるで中身を抜かれた案山子(かかし)のように、虚ろな表情で崩壊した街を見つめている。
神様を奪われるということは、単に資源を失うことではない。その土地の歴史を、誇りを、そして「明日も生きていける」という根源的な安心感を、根こそぎ奪われるということなのだ。
長老は、黒く濁った井戸の縁に手をつき、言葉にならない嗚咽を漏らしていた。その背中は、一瞬で十数年も歳をとったかのように小さく、脆くなっていた。
「……これが、帝国の言う『秩序』なのか」
アラタは、自分の手が白くなるほど強く、修理槌を握りしめていた。周囲に満ちているのは、もはや神々の囁きではない。押し殺された嗚咽と、重油の匂いに混じった絶望の吐息。
帝国軍は、用が済んだと言わんばかりに、再び規則的な進軍の足音を立てて去っていった。後に残されたのは、二度と飲めない毒の井戸と、心に深い穴を穿たれた人々だけだった。
「……直さなきゃ」
アラタは、誰に言うでもなく呟いた。壊れた時計を直すように。歪んだラジオを調律するように。この、神様さえも部品として使い潰す狂った世界そのものを、本来の「音」へと戻さなければならない。
空からは、煤煙に煙る空から降る黒い雨が、アラタの頬を伝って落ちた。それが涙なのか、それとも帝国の汚れなのか、彼自身にも分からなかった。この日、一人の少年の中で、平穏な日常は完全に死に絶えた。
そして、世界で唯一、神の声を聴く「調律師」としての孤独な戦いが、静かに、しかし烈火のような決意と共に幕を開けたのだ。
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