第5話

 3年になると田中くんとチョコと私はみんな同じクラスになった。水彩画を塗ったような空に入道雲が浮かぶ6月。昇降口で靴を履き替えていると、

「あ!」

 スニーカーを先に履いたチョコが緑のマットを踏みながら声を上げた。

「なに?」

 チョコの目線の先を見ると、肩からバッグを提げた男子生徒の後ろ姿があった。

「田中くんだ」

 相手に聞こえないように小声でチョコが言った。よく気づくなあ。毎日同じ背中を見ていたら分かるようになるのだろうか。私は爪先にひっかけていたローファーから足を上げ、下駄箱に揃えて戻した。

「なんか私、教室に忘れ物しちゃったみたい。取りに行くから先に行ってて」

 返事を待たずに小走りでその場を後にする。実際には忘れ物などしていないのだけれど無為に3階まで上り自分の教室に入る。誰もいない夕方の教室は西陽に焼かれ、影を濃くした机と椅子がもの寂しさを濃密なものにしていた。ぐるぐると教室を回って5分くらい時間を潰し、もういいかなと階段を下ると、

「おかえりー」

 昇降口にいたのはスクールバックにぶらさがったキーホルダーを弄ぶチョコの姿だった。

「……待っててくれたの?」

「あたりまえじゃーん。じゃ、行こ」

「う、うん」

 履き慣れたローファーをぎこちなく履いて校舎を出た。どうして待っていてくれたの?田中くんのところに行かなかったの?聞きたかったけれどなぜか喉が詰まって何も言えなかった。追いつけそうなところに田中くんがいて、ふたりきりで話せるチャンスだったのに、忘れ物をした私が帰ってくるのを待っていてくれた。その行動に特別な意味を見出しそうになる自分の単純さが憎い。目の端に映るチョコの横顔は数歩先のアスファルトを見つめていて私なんて視界にない。そう思ったから右を向いた。そしたら目が合って、足がすくみそうになった。

「忘れ物ってなんだったの?」

 チョコは私の動揺に気づいておらず、無邪気に話しかけてくる。

「あ、あのね、うーんと……やっぱり忘れ物なんてなかったみたい」

「へ? なんじゃそりゃ。うっかりしてんなー」

「ごめん」

「いいけどね別に」

 チョコは優しい。私にはもったいないくらい。私と彼女は性格も体格もかけ離れている。共通点は性別くらい。額に何か落ちてきた。いつのまにか曇っていた空。

「あめ!」

 という声に少し遅れて、怒涛の雨が地面を叩き出した。別れ際の涙のように激しい。

「駅まで走ろう!」

「え、わあ」

 手を引かれてびっくりした。手を引いたのがチョコだったから。いやチョコ以外にいないのだけれど、まさか手を引かれると思ってなくて。チョコの手。柔らかくてふにふにして細くてすべすべで、いい匂いがする。守ってあげなくちゃいけないと思いたくなる小さな手。小走りをするチョコのスカートが揺れる。左右に揺れて遊んでいるひらひら。ふくらはぎ。靴下。スニーカー。荒くなってゆく吐息。もう一度視線を上げるとチョコの雨に濡れた白いシャツが透明に変わっていて、大人びた下着が透けていた。チョコが速度を落として振り向きゆっくり立ち止まった。私が相当辛そうだったから走るのをやめてくれたのだろうか。私の頬は上気しており、鏡を見なくても赤くなっているのが分かった。

「あはははは」

 あどけない笑い声。私を見て笑ったのか、この状況が自然に笑えたのか。彼女の純粋さがずっと眩しい。嫌なことに腹が立てられること。誰かを素直に好きになれること。雨音に紛れさせて好きを言うことですら怖い私を置いて、チョコは先に進んでしまう。太陽の眩しい昼休みのことだった。


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