第ニ章 目覚め、そして知らぬ世界へ

 灰色の空は、果てしなく重く垂れ込めていた。

 雲の層は厚く、決して晴れることのない鉛色のヴェールのように、大地を覆い尽くしている。

 その下に広がるのは、赤黒く焼け焦げた岩肌の荒野。

 亀裂だらけの地面からは、時折、薄い蒸気が立ち上り、硫黄と鉄の匂いが混じり合って鼻を刺した。

 そんな不毛の辺境に、ひっそりと息を潜めるようにして、一つの小さな集落があった。

 家々は粗末な石と枯れ木で組み上げられたもので、どれも傾き、風雨に耐えるのがやっとという様子。

 住人は三十人も満たない。

 彼らは言葉少なく、互いの顔をほとんど見ず、ただ生き延びるために日々を繰り返していた。

 この地は、深淵の世界――人々が「裏側」と呼ぶ領域――の中でも、最も辺鄙で、最も忘れられた場所の一つだった。

 深層から這い上がってくる異形の怪物、混沌の瘴気に心を蝕まれ狂気に堕ちた者たち、そして、時折吹き荒れる「崩壊の嵐」。

 生きること自体が、すでに試練だった。

 その集落の端に建つ、一番古く、一番小さな小屋。

 そこで、ひとりの少年が、長い眠りからゆっくりと目を覚ました。

 瞼は鉛のように重く、開くのに時間がかかった。

最初に視界に入ったのは、ぼんやりとした橙色の灯り。

 そして、その灯りの向こうに浮かぶ、一つの顔。


「……目が、覚めたのね……!」


 声は震えていた。

 喜びと、安堵と、泣き出しそうな切なさが混じり合った声。

 女性だった。

 二十代半ばほど。

 透き通るように白い肌、夜の闇を溶かしたような長い黒髪。

 そして、何よりも印象的なのは、その瞳。

 銀色の光を宿し、まるで月光を閉じ込めたような、静かで深い輝きを放っていた。

 彼女はこの世界の住人――深淵種の血を引く者――であることを、一目で物語っていた。

 少年は、ぼんやりとした意識の中で彼女を見つめた。

 胸の奥に、かすかな温かさが広がる。

 懐かしい。

 どこかで、ずっと昔に感じたような……そんな感覚。


「……ここは……?」


 声がかすれ、喉が乾いていた。


「安心して。私の名前はリラ。ここは、私の家よ。あなたは……助かったの。まだ、名前も、何も思い出せていないみたいだけど……大丈夫。少しずつ、戻ってくるから」


 彼女の声は柔らかく、まるで深い眠りの続きを誘うようだった。

 ――彼にはまだ名前がなかった――は、ゆっくりと上体を起こそうとした。

 だが身体は鉛のように重く、筋肉の一つ一つが悲鳴を上げた。

 まるで、何年も使われていなかった機械のように、軋み、抵抗した。

 彼女は慌てて手を差し伸べ、支えてくれた。

 その手の温かさが、少年の胸に小さな波紋を広げた。

 深淵種の中でも極めて珍しく、人間に近い容姿と心を持った者だった。

 数ヶ月前、荒野の岩陰で瀕死の状態で倒れていた少年を、彼女は一人で運び、看病し続けてきたという。

 傷は深く、熱は高く、何度も死にかけながらも、少年は奇跡的に命を繋いできた。

 それから数日。

 リラの助けを借りながら、少年は少しずつ歩く練習を始めた。

 最初は数歩で息が切れ、膝から崩れ落ちる日々。

 だが、日を追うごとに身体は応えてくれた。

 やがて、集落の外まで出られるほどに回復した。

 集落の人々は、少年に対して冷淡だった。

 助けたリラでさえ、好奇の目で見られる。


「深淵の底から拾ってきた餓鬼など、災いを呼ぶだけだ」と囁く声もあった。それでもリラは、彼を決して手放さなかった。

 ある朝、少年とリラは、集落の外れで薬草を摘んでいた。赤黒い岩の隙間に、風化した草がわずかに生えている場所。そこで、少年の足が何かに引っかかった。

 岩陰に半ば埋もれるようにして、一振りの剣が横たわっていた。

 黒く、重々しい鞘。

 柄の部分には、複雑な紋様が刻まれている。

 明らかに、ただの武器ではなかった。


「これは……?」


 彼が呟く。

 リラが静かに答えた。


「あなたと一緒に倒れていたのよ。すごく……禍々しい力を感じるけれど、どこか、あなたにぴったりだと思ったから……持ってきて、ここに置いていたの」


 少年は剣に手を伸ばした。

 指先が触れた瞬間、胸の奥がざわついた。

 痛みではない。

 懐かしさでもない。

 もっと深い、何か……「帰るべき場所」の匂いのようなもの。

 だが、それ以上は何も思い出せなかった。

 剣は黙って、ただそこに在った。

 日々が過ぎるにつれ、少年は集落での生活に馴染んでいった。

 リラの優しさに癒されながらも、心の底には常に空虚が残っていた。

 自分が「誰」なのか。

 なぜここにいるのか。

 何を失ったのか。

 答えのない問いが、夜毎に彼を苛んだ。

 そして、ある日だった。

 集落のはずれにそびえる、古い塔のような岩山が、突然爆発した。

 空が赤く染まり、轟音とともに巨大な衝撃波が大地を這った。

 岩が砕け、土煙が舞い上がり、集落全体が揺れた。


「大きい!!」


 リラが叫んだ瞬間、少年の頭に、稲妻のような激痛が走った。

――黒い炎が世界を焼き尽くす光景。

 爆発する大地。

 誰かを、必死に守ろうとした自分の姿。

 遠くで響く叫び声。

 焼け焦げた大地に立つ、一人の男の背中――「父」と呼ぶべき存在。


「う……っあああああああっ!」


 少年はその場に膝をつき、崩れ落ちた。

 記憶の断片が、洪水のように脳裏を駆け巡る。

 自分の名前。

 戦ってきた日々。

 大切だった人々の顔。

 そして、最後の瞬間――

 最大の脅威が残した「アポカリプト・コア」の暴走を、自らの全てを賭して封じ込めたこと。

 その代償に、力も記憶も失い、長い眠りに落ちたこと。

 そして、守護の存在によってこの深淵の世界へ送り届けられたこと。

 その後、深淵の怪物に襲われ、再び記憶を封じられたこと。

 すべてが、一瞬で繋がった。

(俺は……ここに来た理由を……思い出した……)

 目の前には、崩れゆく岩山と、傷ついたリラがいた。

 彼女は彼をかばうように立ち、血を流しながらも微笑もうとしていた。

 もう、迷っている時間はなかった。

 深淵の世界で、何かが始まろうとしている。

 均衡を崩し、全てを飲み込もうとする力が、動き出している。

 彼は、ゆっくりと立ち上がった。


「……俺は……俺の名前はアレン」


 手に握る剣が、微かに震えていた。

 それはもはや、ただの古い武器ではなかった。

 彼自身が選んだ道を、照らすための光だった。

 灰色の空の下、赤黒い荒野に、再び少年の影が立った。

 今度こそ、すべてを終わらせるために。

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