孤城外守輪常轉

 世界は、泥のような雨に溶けようとしていた。


 フロントガラスを叩く酸性雨が、ワイパーの軋みとともに霓虹ネオンの光を引き延ばし、どす黒い夜に極彩色の傷跡を残しては消していく。

 黒凱ヘイカイ——カイは、ハンドルを握る右手の感覚を確かめるように、わずかに指を動かした。生身の指先には、常にエンジンからの微かな振動と、九龍塞コウロン・ブロックの重苦しい湿気が纏わりついていた。


 バックミラーに目をやる。

 後部座席には、リンが横たわっていた。


 まぶたを閉じ、意識を遠い電子の楼閣へと飛ばした抜け殻。

 うなじの接続端子ジャックからは、神経のような光ファイバーケーブルが助手席の足元にある演算器サーバーへと伸びている。

 サーバーの冷却ファンが、熱に喘ぐような低い唸りを上げ、青白い光点インジケーターが脈動するように明滅していた。


 八時間。

 リンが、あの偽りの楽園に潜り込んでから、もうそれだけの時間が経過している。


「正確には、八時間十三分二十二秒でございます」


 懐から、皮肉めいた丁寧な声が響いた。藍銃ランチャンだ。


「……聞いてねえよ」


「カイ様の網膜が『今、何時間だ?』と疑問符を浮かべておられましたので」


 カイは舌打ちし、再び前方に視線を戻した。

 車は九龍塞の外周、かつての繁栄から取り残された高架道路を走り続けていた。

 眼下には、酸性雨に侵食されて骨組みを晒したショッピングモールや、止まったまま錆びついた観覧車が、骸骨のように立ち並んでいる。

 この街に、もう「観光客」などという人種は存在しない。

 ここにいるのは、法から逃げた者、記憶を捨てた者、そして明日を信じない者だけだ。


 止まることは許されない。

 速度を落とした瞬間、龍華ロンホワの追跡アルゴリズムがこの通信源を補足する。

 三分の停止は、死を意味する。だから走り続ける。燃料が尽き、あるいはリンの脳が焼き切れるまで。


 なぜ、こんな時代に内燃機関エンジンを回しているのか。

 電気信号一つでハックされ、遠隔で停止させられる最新のスマート・カーより、化石燃料を爆発させて無理やりピストンを押し下げるこの鉄屑の方が、よっぽど信頼できる。

 すべてが書き換え可能な仮想に飲み込まれていく世界で、ただ一つ、物理的な熱量だけが現実に繋ぎ止めてくれる気がした。


「次の周回で、燃料がクリティカルポイントに達します」

「わかってる」

「最寄りのガソリンスタンドは二キロ先。セルフ方式ですが、龍華製の監視——」

「天網恢恢だな……」

「疏にして漏らさず。はい。現代語に訳せば『監視カメラ六台』でございます」

「……反吐が出る」

「現代社会における『安全と安心』の代償でございます。カメラを撃ち落としますか?」

「馬鹿か。そんな派手な真似をすれば、『ここにいるぞ』と合図を送るようなもんだ」


 カイは答えず、再びバックミラーを見た。

 リンの顔は、あまりにも安らかだった。

 眉間を寄せることもなく、ただ深い眠りについているように見える。

 だが、その意識は今、毒々しいまでに美しい後宮で、命懸けの「嘘」を演じているのだ。


 無防備すぎる。

 こうして抜け殻になったリンを見るたびに、カイの胸の奥には、鋭いナイフで抉られたような不快な疼きが走る。


 守らなければならない。

 そう自分に言い聞かせるが、そのたびに問いが返ってくる。


 ——それは、俺の「仕事」なのか? それとも、「罰」なのか?


 昔なら、相棒に任せて仮眠を取ることもできた。

 今は、そいつの名前すら口に出したくない。


「また、ご覧になっていますね。対象への執着は、生存率を低下させます」

「……うるせえよ」

「私は純粋な統計学に基づいた助言を申し上げているだけでございます」


 カイはポケットから煙草を一本取り出し、唇に挟んだ。

 だが、ライターの火を灯そうとして、思い止まった。

 狭い車内。リンは口には出さないが煙草の臭いを嫌がる。たとえ意識がなくても、こいつはここで呼吸しているのだ。


 ——いつから、そんな殊勝なことを気にするようになった。


 高架の継ぎ目を越える際、車体が大きく跳ねた。

 後部座席でリンの身体が浮き上がり、ケーブルが不自然に突っ張る。

 カイは咄嗟にハンドルを抑え、ブレーキを軽く踏んで衝撃を和らげた。


「……お優しいことで」

「黙れ。ランちゃん」

「私は何も申しておりません。ところで」


 藍銃の声が、少しだけトーンを落とした。


「まだ何かあるのか」

「いえ。ただ、純粋な疑問がございまして……なぜ、リン様に黙っていらっしゃるのですか」


 ハンドルを握る手に、不自然な力が入った。

 節くれ立った、火傷の痕だらけの拳。


「十五年前のことでございます。私には、当時の音声ログ、および接続履歴が完全に保存されております。あなた様が実行された——」

「やめろと言ったはずだ……その記録は消せ」


 カイは自分の右手を見下ろした。節くれ立った指先に残る、醜い火傷の痕。

 神経接続ジャックを強引に引き抜いた時の、あの肉の焼ける感覚が、十五年経った今も掌にこびりついている。

 ——あの日、俺は命令に従った。


 声が、自分でも驚くほど低く、地這うように響いた。


 藍銃は、珍しく数秒間、沈黙した。

 ワイパーが軋み、フロントガラスの上で雨水を掻き消していく。

 その規則正しいリズムが、まるでカウントダウンのように聞こえた。


 カイはバックミラー越しに、リンの寝顔をじっと見つめた。

 何も知らない。自分が何者だったのか。誰に愛され、誰に裏切られたのか。

 最高に笑えない冗談だ。


「真実を告げる機会は、無限ではありません。リン様が自ら記憶の断片を繋ぎ合わせる前に、あなた様の口から——」


 藍銃が、静かに、しかし断定的に続けた。


「俺に説教する気か? 銃の分際で」

「滅相もございません。私は、あなた様の最も忠実な武器であり、唯一の目撃者でございますので」

「……黙ってろ」


 会話が途絶えた。

 車内には、激しい雨音と、サーバーの排熱音だけが残った。


 ◇ ◆ ◇


 不吉なアラートが車内に響いた。


「ターゲット検知。蜂型三機。後方二百メートル、高架下より急速接近」


 カイはバックミラーから目を離し、サイドミラーを睨みつけた。

 雨のカーテンを突き破り、赤い単眼の光点が三つ、正確な編隊を組んで迫ってくる。


「型番は?」

「LH-7720-SC。龍華警備の最新モデルでございます。機動力重視。推奨弾数、各二発」

「六発か……上等だ」

「現在、残弾は七発でございます」


 カイはアクセルを踏み込んだ。

 旧式のエンジンの咆哮が車内を満たす。

 車は高層ビルの隙間を縫うように、迷路のような九龍塞の細い路地へと滑り込んだ。

 だが、蜂型ドローンは空中を自在に泳ぎ、距離を縮めてくる。


 百五十メートル。百メートル。


 カイは左手一本でハンドルを制御し、右手で懐から藍銃を引き抜いた。


 スライドして下がる運転席の窓。

 暴力的な酸性雨が車内に流れ込み、カイの顔を打つ。上半身を捻り、後方へと銃口を向けた。


 蜂型が迫る。ローター音が、雨音を切り裂く不快な羽音となって耳を突く。


 引き金を引き絞った。

 放たれた光弾が、先頭機の推進翼を根本から断裂。バランスを失った機体は火を噴き、螺旋を描きながらビルの壁面へと激突した。粉砕されたガラスと鋼板が、火花と共に雨の中へ散る。


「残弾六」


 車体が大きく跳ねた。路面の水溜まりがタイヤを奪い、ハンドルが暴れる。

 カイの生身の筋力が、強引に軌道を押さえ込む。次弾。


 ——外れた。

 光条はドローンの装甲を掠め、夜の闇に吸い込まれた。

「残弾五」

「偏差0.3。右に二度」


 次弾。

 光弾が二機目の単眼を正確に貫通。弾けたレンズの破片が、火花と共に雨粒を赤く染めた。カイはその着弾の反動を殺さず、身体を強引に捻る。加速した藍銃の重い銃身が、横から肉薄した三機目のローターを叩き折った。

 断裂した金属片が氷片のように散り、バランスを失った機体はアスファルトへ叩きつけられた。


「残弾四」


 エンジンの咆哮と、肋骨を叩く心臓の音。それだけが、一瞬、世界に残った。


 残り一機。距離、五十メートル。

 最後の一機が、不自然な急上昇を見せた。


「スタンガン、チャージ開始。狙いはあなた様ではありません」

「何だと?」

「リン様の身体ハードウェアを狙っています」

「脳を焼けば、潜入ログごと証拠を消せると判断したのでしょう」


 血の気が引いた。

 ダイブ中に電気ショック。神経系が焼き切れる。心停止。脳死。


「——させるかよッ」


 ハンドルが右に切れる。サイドブレーキが引かれる。

 横滑り《ドリフト》する車体が、射線を物理的に塞いだ。後部座席が死角に滑り込む。

 放たれた電撃が車体を直撃した。青白い火花が走り、亀裂の入った窓ガラスが悲鳴を上げる。


 同時に、カイは決めの一弾を放った。

 狙いすました光条が、ドローンの冷却孔を貫通。内部で基板が弾ける音がし、噴き出した火花がローターを停止させた。自由落下する鉄屑がアスファルトに激突。単眼の光が、泥水の中で潰えた。


「お見事でございます」

「残弾は」

「二発。ガソリンスタンドまで、あと五分です」


 窓を閉めた。息が荒い。

 顔は雨と汗で濡れ、心臓が肋骨を叩いていた。


 バックミラーを見る。

 リンは、相変わらず何も知らない顔で眠っている。

 火花が散り、車体が悲鳴を上げたことさえ、彼女の世界には届いていない。


「カイ様。左肩から出血しています」

「……かすり傷だ」


 カイはアクセルを踏み抜いた。


「詩に曰く。『不運は重なり、血は流れる』。統計的には、そろそろ包帯を巻くべき時間でございます」

「そんな詩はねえよ」


 ◇ ◆ ◇


 給油は、死んだような静寂の中で行われた。


 深夜の無人スタンド。

 カイは帽子を深く被り、監視カメラの死角を縫うようにしてノズルを差し込んだ。

 流れ込むガソリンの音だけが、不気味に響く。


 車に戻ると、リンの額に、じっとりと汗が滲んでいた。

 ダイブ時間が長すぎる。

 仮想の中での緊張が、現実の肉体に過負荷を与えている証拠だ。


 カイは後部座席に身を乗り出し、汚れた親指で、彼女の額の汗をそっと拭った。

 その肌は、驚くほど冷たかった。


 リンは目を覚まさない。

 彼女の魂は今、遠い「理想郷」で戦っている。

 

 カイは何も言わず、運転席に座り直し、エンジンをかけた。

 また、終わりのない周回が始まる。


「リン様の接続状態、バイタル共に低下……神経負荷シナプスロードがレッドゾーンに接近しています。あと二時間が最長稼働限界かと」

「……わかってる。あいつなら、やり遂げるさ」


 カイは、雨に煙る夜道を見つめた。

 バックミラーの中の、自分自身と目が合う。


 なぜ、俺はここにいる。

 これは救いなのか、それとも、永遠に終わらない「刑罰」なのか。


「カイ様」

「……なんだ」

「嘘は、いつか必ず明らかになります。その時、あなた様は、リン様の『何』でいたいとお望みですか?」


 カイは答えなかった。

 交代要員はいない。ここは孤城だ。


 酸性雨が、夜のネオンを醜い色彩に溶かし続けている。

 後部座席で、リンが微かに身じろぎをし、小さく唇を動かした。


「……白雲バイユン


 カイは答えず、ただ速度を上げた。

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