魚躍龍門金龍笑

 そこは、世界から色を奪ったような「白」の牢獄だった。


 壁も、床も、天井も、継ぎ目のない乳白色。光源が見えないのに、影が一つも落ちない。

 無限に続く、巨大な棺桶のようだった。

 参照点を見失った視覚野のレンダリングが、焦点距離を求めて虚しく走査を繰り返す。平衡感覚が、定義を失った座標系の中で静かに侵食されていった。


 仮想VR空間の初期設定デフォルト

 描画コストを極限まで削ぎ落とし、対象の精神に「無」を突きつける、龍華ロンホワらしい効率主義の具現化。


 空間の中央に、椅子が一脚だけ置いてあった。

 背もたれの高い、やはり真っ白な椅子。

 「ここへ座れ」と、言葉を介さずに命じているような、不気味な存在感。


 リンは、椅子を無視して立ったままだった。


 視界の端で、椅子のオブジェクトデータがチカチカと点滅している。

 「安らぎ」を感じるように設計された、完璧な曲線。——だからこそ、吐き気がするほど気持ちが悪い。九龍塞の汚泥を知る者にとって、その清潔さは暴力的な誘惑だった。

 だが、リンの直感が警鐘を鳴らしていた。


 これは、最初の踏み絵だ。

 座った瞬間、私はこの世界の「客」になる。あるいは、管理者の意図に従う「部品」になる。

 一度座れば、立ち上がるタイミングを奪われる。


 リンは椅子から三歩離れた場所に立ち、姿勢を正した。

 假牒偽装IDは完璧だ。

 名前は「紅梅ホンメイ」。第三階層出身。二十三歳。

 今の私は、後宮の門を叩く、野心と慎みを持ったただの志願者でなければならない。


 待った。


 ただでさえ時間の境界が曖昧な仮想空間において、この白一色の閉鎖空間は、時間の概念そのものを剥ぎ取っていった。

 何も起きない。白い部屋。白い椅子。絶対的な静寂。

 何も変化がない空間に立ち続けるのは、座って待つのよりも数倍の精神力を消耗する。

 足の裏の感覚が消え、自分が空中に浮いているような錯覚に陥る。


 ——試されている。


 座るべきか。座らざるべきか。

 この「白」は、志願者の忍耐力を測るフィルターなのだ。

 焦れて動き出すか。不安に耐えきれず椅子に逃げるか。

 凡庸な志願者は、この白い虚無に、そして「座れ」という無言の圧力に耐えられない。


 リンは目を閉じた。

 網膜の裏で、漢詩を一首、反芻する。


 床前明月光

 疑是地上霜

 挙頭望明月

 低頭思故郷


 李白。『静夜思』。

 心拍数を落とす。呼吸を深くする。

 私は石だ。路傍の石ころだ。座る必要のない、ただの風景の一部だ。


 その時。

 空間が裂けた。


 白い壁の一部が、音もなくスライドし、そこから光が溢れ出した。

 人工的で、暴力的なまでに神々しい金色の光。


 男が入ってきた。


 若かった。二十代半ばに見える。

 だが、纏う空気が違う。重力が、彼を中心に歪んでいるような錯覚を覚える。


 金糸の刺繍がのたうつ黒い衣。頭上には、精緻な彫刻が施された玉の冠。

 鼻梁の高さ、唇の薄さ、骨格のバランス。すべてが黄金比に基づいて設計されている。

 完璧すぎて、生物としての「臭い」がしない。


 ——目が違う。

 氷河の底のような青い瞳。その奥で、何かが蠢いている。

 退屈と、飢えと、それから——底知れない愉悦。

 程序プログラムには書けない、混沌とした「自我」の光。


 男は入ってくるなり、一度だけ空の椅子に視線を落とした。

 そして、まだ立ったままのリンを見て、口角をわずかに持ち上げた。


紅梅ホンメイ


 男が口を開いた。声は低く、チェロの音色のように滑らかで、空気を震わせた。


「第三階層出身。二十三歳。前職は——楊州路ヤンチョウ・ロードの茶館の給仕」


 空中に浮かんだウィンドウを見ながら、男が假牒の内容を読み上げる。

 リンは深く頭を下げた。

 侍女としての、完璧な礼法プロトコル


「はい」

「嘘だな」


 男は微笑んでいる。

 完璧な微笑み。筋肉の収縮率まで計算され尽くした表情。

 だが、目だけが笑っていない。


「——第三階層に、茶館はない。地上げですべて潰された」


 嘘だ。

 リンは知っている。第三階層の裏路地, 室外機の隙間にへばりつくようにして、茶館は三軒だけ生き残っている。

 假牒を作る前に, リンは自分の足でそこを歩き、湿った空気と茶の匂いを確認した。


 これは揺さぶりだ。

 知ったかぶりをして否定するか。それとも、事実を突きつけるか。

 あるいは——嘘を「真実」として飲み込むか。


 リンは黙っていた。

 否定も肯定もしない。ただ、静かな瞳で男を見つめ返した。


 金龍の唇が、わずかに歪んだ。


「……ほう。なぜ座らなかった」


 問いは、経歴ではなく「椅子」に向けられた。


「主を待つ身であれば、立っているのが当然かと存じます」


 リンの答えに、金龍は鼻で笑った。


「そうか。お前は『主』が来るとわかっていたわけだ。この白い虚無の果てにな」


 男は優雅な動作で、その白い椅子に腰を下ろした。

 彼が座った瞬間、真っ白だった椅子が瞬時に黒檀の意匠へと書き換えられた。

 システムが彼にかしずいている。


「経歴など、どうでもいい」


 男は足を組んだ。衣の裾から、金色の龍の刺繍が覗く。


「お前が男だろうが女だろうが、犯罪者だろうが聖人だろうが、私は構わん。——ここは仮想VRだ。現実リアルの属性など、ここでは意味を成さない」


 リンは表情を動かさなかった。

 まぶた一つ動かさない。


「後宮に必要なのは、美しい嘘をつける人間。そして嘘を見抜ける人間。そして何より……他人の嘘を、粋に楽しめる人間だ」


 沈黙。

 白い空間に、男の吐息だけが響く。


「紅梅。いい名を『選んだ』な。梅は雪の中でこそ咲く。紅は——血の色だ」


 男は立ち上がった。歩き始める。

 リンの周りを、ゆっくりと。獲物を品定めする猛獣のように。

 リンは背筋を伸ばし、その視線を受け止めた。


 内史であり、この世界の管理者アドミニストレーターであるはずの白雲バイユンとは異なる、圧倒的な圧力を放つ男。

 この後宮の真の支配者——皇帝。


「詩は詠めるか」


 唐突な質問。

 リンは頷いた。


「少しは」

「少し、か……謙遜は美徳だが、退屈でもある」


 金龍が足を止めた。リンの背後。視界の死角。


「では、試そう。——上句を出す。お前は下句で返せ」


 詩の対句。漢詩の基本にして奥義。

 だが、ここではただの教養試しではない。

 詩句コードはこの世界システムの根幹に作用する。


「『春風得意馬蹄疾』」


 金龍の声が響いた。

 朗々とした、しかしどこか挑発的な響き。


 孟郊。『登科後』。

 科挙に受かった喜びを詠んだ詩。

 春風に乗って馬を走らせる若者の、得意の絶頂。


 ——これは罠だ。


 原詩の下句は「一日看尽長安花」。一日で長安の花を見尽くす。

 だが、そのまま返せば「システムに従うだけの退屈な人偶NPC」と同じだ。


 春。疾走感。高揚。

 それに対する、この白い沈黙にふさわしい「対句」は——。


 リンは乾いた唇を割り、静かに答えた。仮想の喉が、一瞬だけ拒絶反応のように凍りつく。


「『秋水無痕月影沈』」


 秋の水に痕跡はなく、月影は沈む。

 静寂。冷たさ。深淵。


 金龍が振り向いた。

 衣の袖が風を切る音。


「ほう」


 青い瞳が、初めて興味の色を帯びて細められた。


「春に対して秋。得意に対して無痕。馬蹄の疾走に対して、水面の静寂……陽に対して陰で返したか」


 金龍は微笑んだ。

 今度は、目も笑っていた。


「小賢しい」


 だが、その声には嘲りがなかった。むしろ——愉悦。


「面白い。——傲らない。だが、卑屈でもない。媚びず、恐れず、ただ在る」


 リンの前に戻ってきた。見下ろしている。近い。

 白檀の香りがする。


「久しぶりだ。こういう手合いは」


 指が伸びた。

 リンの顎に触れる。冷たい。氷のように。

 持ち上げられ、顔を覗き込まれる。


「最近の志願者は、つまらない者ばかりでな。金目当ての売女か、夢見がちな少女か。怯えるか、媚びるか。椅子に座れと言えば、喜び勇んで腰を下ろす。——どちらにせよ、三日もすれば飽きる」


 唇の端が歪む。


「お前は、どのくらい保つかな。紅梅」


 指が離れた。


「後宮で何をするつもりだ」

「働きます……生きるために」


 金龍は鼻で笑った。


「後宮に来る者は、みな何かを求めている。金か、地位か、快楽か。あるいは——」


 金龍は言葉を切った。


「復讐か」


 リンは金龍の目を見返した。

 氷のような青。その奥に、底知れない闇が渦巻いている。


「私は——」

「答えなくていい」


 金龍は手を振った。


「どうせ嘘だ。嘘でいい。後宮は巨大な嘘で出来ている。真実など、ここでは誰も求めていない……真実は、醜くて痛いだけだ」


 扉が開いた。

 先ほどよりも強い、金色の光が溢れ出す。


「合格だ」


 リンは一礼する。


「ありがとうございます」

「礼はいらない。代わりに——私を楽しませろ」


 金龍は背を向けた。扉に向かって歩き出す。


「——ただ、一つ忠告しておく」


 足を止めた。振り返らない。


白雲バイユンと言う男には、近づくな」


 その声が一段と低くなった。


「あれは私のものだ……指一本、視線一つ触れるな」


 それは警告ではなく、所有宣言だった。

 金龍はそのまま歩き去った。光の中へ。


 扉が閉まる音。

 再び、白い部屋に静寂が戻った。


 ——いや。


 白が、溶け始めていた。


 壁面がブロックノイズとなって崩落し、床がピクセル単位で分解・消失していく。

 世界が、再構築リビルドされる。


 白の代わりに、色が滲み出した。

 鮮烈な朱。高貴な金。深遠な翡翠。

 書き込まれたデータが仮想の質量を持ち、高解像度のテクスチャが空間を埋め尽くしていく。


 朱塗りの柱が地面から生え、翡翠の欄干が空へと伸びた。重なり合う瓦が空を覆い、光を遮断する。


 どこからか琵琶の音が響き始めた。

 沈香じんこうの煙が、まだ存在しないとばりの隙間を縫って漂ってくる。


 気づけば、リンは巨大な門の前に立っていた。


 朱塗りの門。金の鋲。左右に鎮座する巨大な石獅子。

 その向こうに、蜃気楼のように楼閣が連なっている。


 完璧だった。

 あまりにも完璧すぎて、吐き気がするほど美しい。


 夢幻後宮。


 入り口が、巨大な獣の口のように開いている。

 リンはその腹の中へと、一歩を踏み入れた。

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