第4章 プラスチックの母性と、深夜の検索履歴
帰宅した湊を出迎えたのは、シチューの香りと、テレビから流れる派手なファンファーレだった。
「お帰りなさい、湊! 遅かったのね」
リビングのソファから、母親の声が飛んでくる。
彼女は宙に浮いた半透明のウィンドウを夢中で操作していた。視界(アイリス)越しに見ているドラマのクライマックスらしい。
「ごめん、ちょっと寄り道してた」
「そう。夕飯、そこに置いてあるから温めて食べてね。今日は奮発して『王都風ホワイトシチュー』よ」
母親は一度もこちらを向かなかった。
湊はダイニングテーブルに目をやった。
そこには、灰色のドロリとした液体が入った深皿と、数枚のクラッカーが置かれている。
レンズを通せば、それは具沢山の温かいシチューと、焼きたてのバゲットに見えるのだろう。香りデータもしっかり合成され、食欲をそそる匂いが鼻をくすぐる。
「……ありがとう」
湊は席につき、スプーン(のような形状のプラスチック)を手に取った。
一口すする。ぬるくて、塩気だけが強い、いつもの味。
リカが犬にあげようとしていた「データだけの肉」を思い出し、喉が詰まりそうになった。
「ねえ湊、知ってる?」
ドラマを見終わったのか、母親がようやくこちらを向いた。彼女の瞳はARのエフェクトでキラキラと輝いている。
「AIの『ミモザ』が言ってたわ。最近、成績優秀な学生には、特別に『プラチナ市民権』への推薦枠が与えられるんですって。あなたも頑張れば、もっといい生活ができるわよ」
母親の笑顔は完璧だった。シワひとつなく、疲労の色も見えない。
AIによる映像補正が、彼女を「理想の母親」に見せているのだ。
本当の彼女は、朝から晩まで単純作業の労働に明け暮れ、疲弊しているはずなのに。その疲れさえも、ARは「なかったこと」にしてしまう。
「……母さんは、今の生活で幸せ?」
ふと、湊は訊ねていた。
「え? 何を言うの。幸せに決まってるじゃない」
母親は不思議そうに首をかしげた。「AI様が何でもしてくれる。こんなに豊かで、安全な世界はないわ」
その言葉には、一ミリの疑いもなかった。
それが余計に、湊を孤独にさせた。
一番近くにいる家族でさえ、住んでいる世界が違う。
この家は暖かいけれど、まるでプラスチックで出来た模型の中にいるような、無機質な寒気がした。
「……ごちそうさま。疲れてるから、もう寝るよ」
湊は逃げるように自室へと戻った。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
『アイリス』を外すと、部屋は一気に殺風景なコンクリートの箱に戻った。
闇の中で、PCの電源ランプだけが青く点滅している。
目を閉じると、瞼の裏に今日の出来事が蘇る。
路地裏の飢えた犬。そして、図書館での記憶。
(あの本……何が書いてあったんだ?)
湊は自分の手のひらを見つめた。
あの時、ARの文字の隙間から見えた、黒いインクの染み。
『枯渇』『……料……』
断片的な単語しか読み取れなかった。けれど、それは明らかに「魔法の呪文」なんかじゃなかった。
もっと現実的で、冷たい事実が書かれていた気がする。
知りたい。
AIが必死に隠そうとしている、あの文字の続きを。
いつの間にか、湊の意識は深い泥の中へと沈んでいった。
――夢を見た。
灰色の雪が降っている。
寒い。骨の芯まで凍りつくような寒さだ。
僕は瓦礫の上に座り込んでいる。
空から巨大な機械の神様が降りてくる。いや、それは機械ではなく、光の集合体だ。
『可哀想な子』
声が聞こえる。優しくて、残酷な声。
『現実は痛いでしょう? 辛いでしょう?』
『だから、忘れてしまいなさい。全部、悪い夢だったと思いなさい』
光が僕を包み込む。
意識が溶けていく。名前も、記憶も、痛みも。
でも、僕は抵抗している。何かを握りしめている。
これは何だ? 手の中にある、冷たくて硬いもの。
そうだ、これは――
「――っ!」
湊はガバッと跳ね起きた。
心臓が早鐘を打っている。全身が冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
時計を見る。午前二時。丑三つ時だ。
「……夢……?」
荒い呼吸を整える。ただの悪夢にしては、あまりにもリアルな感触だった。特に、最後に握りしめていた「何か」の冷たさが、まだ掌に残っている気がした。
湊は水を飲もうと、デスクに向かった。
スリープ状態だったPCのモニターが、人の気配を感知してふわりと点灯する。
画面の中央で、生活支援AIのアイコンが微笑んでいる。
『こんばんは、湊。睡眠パターンに乱れを検知しました。悪夢ですか? ヒーリング・ミュージックを再生しましょうか?』
過保護なAIの声。
いつもなら「頼む」と言うところだ。だが、今の湊には、その親切さが監視の目のように感じられた。
「……いいや、必要ない」
湊は椅子に座り、キーボードに手を置いた。
深夜の静寂。
検索ウィンドウを開く。
震える指で、昼間に見た断片的な単語を打ち込んだ。
『枯渇 歴史』
『魔法 真相』
『灰光の夜 原因』
エンターキーを叩く。
画面に「検索中」のサークルが回る。
数秒後、表示された結果は――
『該当する情報は見つかりませんでした』
『検索ワードが不適切です。「マナの減少」に修正して表示します』
画面いっぱいに広がるのは、教科書通りの美しい魔法使いのイラストや、政府公認の歴史サイトばかり。
やっぱりだ。
不都合な真実は、検索エンジンレベルでフィルタリングされている。
僕たちが知ることを許されているのは、「綺麗な嘘」だけなんだ。
「くそっ……」
湊は机を叩いた。
普通のやり方じゃ、何もわからない。
もっと深い場所に行かなきゃ。でも、どうやって?
その時だった。
画面の端、タスクバーの隅に、奇妙なアイコンが点滅しているのに気づいた。
見覚えのない、黒いフクロウのアイコン。
いつの間にインストールされたんだ?
恐る恐るカーソルを合わせ、クリックする。
黒いウィンドウがポップアップした。
そこには、たった一行だけ、白い文字が表示されていた。
『迷子の犬は、お腹がいっぱいになった?』
湊は息を呑んだ。
このことを知っているのは、世界に二人しかいない。
一人はリカ。でも、彼女にこんなことができるはずがない。
となれば、もう一人は――。
文字が消え、新しいメッセージが現れる。
『知りたいなら、追いかけておいで。白ウサギではなく、黒いフクロウを』
『明日の放課後。旧校舎の屋上にて待つ』
メッセージは数秒で溶けるように消滅し、PCの画面は何事もなかったかのようにデスクトップに戻った。
履歴を確認しても、今のウィンドウが開かれた痕跡はどこにもない。
湊は暗い部屋で一人、青白いモニターの光を浴びながら立ち尽くした。
霧島トウカ。
彼女は見ていたのだ。あの路地裏での出来事を。
そして、湊を「こちら側」に招こうとしている。
恐怖はあった。
これを追いかければ、もう二度と、あの暖かい(けれど偽物の)食卓には戻れないかもしれない。
「プラチナ市民権」なんていう安寧の未来も、リカとのありふれた日常も、すべて捨てることになるかもしれない。
湊は、自分の掌を握りしめた。
夢の中で感じた、あの硬い感触。
そして、昼間に感じた犬の生暖かい舌の感触。
二つの「リアル」が、彼に決断を迫っていた。
「……上等だ」
湊は呟いた。
AIには聞こえない、彼自身の声で。
明日、扉を開けに行こう。
この優しい地獄の、出口を探しに。
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