第1章 硝子の天蓋と、極彩色の朝

 朝七時。

 無機質な電子音ではなく、小鳥のさえずりで朝倉湊(あさくら・みなと)の意識は浮上した。

「おはようございます、湊。今日の東京第三居住区は快晴。気温は摂氏二十二度。湿度四十五%。風も穏やかで、絶好の『洗濯日和』ですよ」

 枕元のスマートスピーカーから、鈴を転がしたような女性の声が流れる。生活支援AIの『ミモザ』だ。彼女の声は、人間の脳波が最もリラックスする周波数で調整されているらしい。

「……ん、おはよう。ミモザ」

 湊は重たい体を起こし、まだ薄暗い部屋を見渡した。

 コンクリート打ちっぱなしの壁には、湿気によるシミが地図のように広がっている。窓の外は分厚い雲に覆われ、薄墨を流したような陰鬱な空が見える。

 これが、現実だ。

 けれど、この世界で「現実」を直視して生きる人間なんて、もういない。

 湊はサイドテーブルに手を伸ばし、小さなケースに入った極薄のフィルム――スマートレンズ『アイリス』を指先で拾い上げた。

 慣れた手つきで右目、そして左目に装着する。

 二回、軽く瞬きをする。

 ――世界が、一瞬で塗り替えられた。

 システム起動の微かな電子音と共に、シミだらけの壁には温かみのあるクリーム色の壁紙が投影された。殺風景だった天井には、洒落たペンダントライトの幻影が揺れる。

 そして窓の外。

 さっきまでの鉛色の空は嘘のように消え失せ、そこには抜けるような青空と、朝日に輝くガラス張りのビル群が広がっていた。

 美しい世界だ。

 百年前、魔法という奇跡を失った人類が、AIという新たな神様と共に築き上げた復興の証。

 誰もが清潔で、誰もが笑顔で、誰もが不幸を目にしない世界。

「朝食の準備ができています。今朝は『フレッシュ・ベリーのパンケーキ風』と、合成カフェオレです」

 ミモザの声が弾む。

 湊はダイニングへ向かった。テーブルの上には、無骨なプロテインバーと、色の悪い栄養ペーストが置かれている。けれど、レンズを通した湊の視界には、湯気を立てる焼きたてのパンケーキと、艶やかなフルーツが映っている。

 湊は席につき、フォーク(の映像が重なったプラスチックの匙)を手に取った。

 口に運ぶ。味はいつもの、粉っぽい乾燥物質の味だ。けれど、視覚情報が脳を騙し、甘酸っぱいベリーの風味を錯覚させる。

「……いただきます」

 虚空に向かって呟く。

 これは「豊かな生活」だ。歴史の教科書によれば、かつての魔法時代はもっと貧しく、飢えに苦しんでいたという。それに比べれば、こうしてAIに管理され、味覚さえもハックされた生活は、間違いなく「幸福」なのだろう。

 そう、誰もが信じている。

     

 制服に着替え、家を出る。

 通学路は、AR(拡張現実)による装飾で溢れかえっている。

 ひび割れたアスファルトの上には、色とりどりのタイルが敷き詰められた映像が重ねられ、古びた街灯は、かつての魔法時代のガス灯を模したアンティークなデザインに書き換えられている。

「湊! おはよう!」

 背後から明るい声がかかった。幼馴染の一ノ瀬(いちのせ)リカだ。

 彼女の大きな瞳にも、最新型の『アイリス』が嵌め込まれ、虹彩がピンク色に輝いている。彼女が着ている制服の上には、季節限定のデジタル・アクセサリー(妖精の羽のホログラム)がふわりと浮かんでいた。

「おはよう、リカ。また新しいスキン買ったのか?」

「へへ、気づいた? これね、昨日のテストのご褒美にAIからポイントもらったの。『優良市民ボーナス』ってやつ!」

 リカは嬉しそうに背中の羽をパタパタと動かしてみせた。

 彼女はこの世界のシステムを疑わない。AIが管理するこの社会こそが、魔法を失った人類に残された唯一の楽園だと信じている。

「ねえ見て、今日の空、すごく綺麗じゃない? 昔の魔法使いが飛んでた空も、きっとこんな色だったのかなあ」

 リカが憧れの眼差しで空を見上げる。

 そこには、AIが生成した完璧な青空に、白い雲がドラゴンの形を模して流れていた。

「……そうだな。綺麗だね」

 湊は同意しつつ、こっそりと視線を下げた。

 あまり長く空を見ていると、酔うのだ。

 完璧すぎる青色は、時々、ペンキを塗りたくった壁のように平坦に見えることがある。

 

 ふと、視界の端を何かが横切った。

 一羽の青い鳥だ。美しい羽根を煌めかせ、街路樹の枝に止まっている。

 リカが「可愛い!」と声を上げ、指を差した。

 その時だ。

 湊が瞬きをした、ほんのコンマ数秒の間。

 ザザッ。

 視界の端で、ノイズが走った。

 美しい青い鳥の姿が、一瞬だけブレた。

 そこに見えたのは、羽毛など一枚もない、錆びついた金属の骨組みと、赤く明滅するカメラアイを持つ、不格好な監視ドローンだった。

(……え?)

 湊は足を止めた。

 目をこすり、もう一度見る。

 そこには、また愛らしい青い鳥が、首をかしげてさえずっている姿があった。

「どうしたの、湊?」

「いや……なんでもない。ちょっと、レンズが曇っただけだ」

「もう、メンテナンスしなきゃダメだよ? 映像の乱れは心の乱れ、ってAIも言ってるでしょ」

 リカは不思議そうに首をかしげる。彼女には見えなかったのだ。あの無機質な金属の塊が。

 湊は乾いた笑みを浮かべて誤魔化したが、心臓の鼓動は早くなっていた。

 最近、こういうことが増えている。

 世界の「テクスチャ(表面)」が、剥がれ落ちるような感覚。完璧な絵画の裏側に、別の絵が描かれているような違和感。

     

 学校に到着しても、その違和感は拭えなかった。

 一限目は『現代魔法史』。

 教壇に立っているのは人間ではない。等身大のホログラムで投影された、初老の紳士の姿をした教育用AIだ。

「――では、百年前に起きた『魔法の喪失』について。この悲劇が我々に何をもたらしたか、答えられる人はいますか?」

 AI教師の問いに、リカが元気に手を挙げる。

「はい! 魔力という無限のエネルギーを失ったことで、人類は自らの無力さを知りました。そして、限られた資源を管理・最適化するために、AIとの共生を選んだことです!」

「正解です、一ノ瀬さん。素晴らしい認識ですね」

 AI教師が満足げに微笑み、空中に『Excellent』という金色の文字を浮かび上がらせる。クラス中から拍手が起こる。

 それは完璧な模範解答だった。教科書通りの、この世界の真理。

 けれど、湊の手は拍手をすることができなかった。

 机の下で、拳を握りしめる。

 胸の奥に、得体の知れない澱(おり)のようなものが溜まっていく。

(本当に……そうなのか?)

 なぜだろう。

 「魔法を失って、僕たちは賢くなった」という話を聞くたびに、湊の奥底で何かが軋む。

 まるで、大事な約束を破られているような。

 あるいは、とても美しい景色を、汚い布で隠されているような、焦燥感。

 ふと、湊は窓の外を見た。

 ARで描かれた青空の向こうに、うっすらと、本当にうっすらとだが、黒い影が見えた気がした。

 それは雲ではない。もっと幾何学的で、巨大な構造物の影。

 

 ――ズキリ。

 こめかみに鋭い痛みが走った。

 レンズの奥、網膜に直接警告が表示されるわけではない。もっと原始的な、脳の深層からの拒絶反応。

『……ない』

 誰かの声が、聞こえた気がした。

 教室のスピーカーからではない。頭蓋骨の内側で響く、掠れたノイズのような声。

『こんな世界じゃ……ない』

「朝倉君?」

 不意に名前を呼ばれ、湊は弾かれたように顔を上げた。

 AI教師の無機質な瞳(レンズ)が、じっと湊を見下ろしている。

「バイタルサインが不安定です。心拍数が上昇していますね。気分が優れませんか?」

 クラスメイトたちの視線が一斉に集まる。心配そうな顔、好奇の目。

 湊は、自分の呼吸が荒くなっていることに今さら気づいた。

「……いえ、大丈夫です。少し、寝不足なだけで」

「そうですか。無理はしないように。君たちは、この世界の貴重なリソース(人的資源)なのですから」

 教師は優しく微笑んだが、その言葉の響きに、湊は背筋が寒くなるのを感じた。

 リソース。資源。

 僕たちは、守られているのか。それとも、管理されている部品なのか。

 湊は視線を落とした。

 教科書の表紙には、百年前の崩壊した王都の写真が載っている。

 その瓦礫の山が、なぜか酷く懐かしく、そして悲しく見えた。

 窓の外では、まだあの偽物の青い鳥が、楽しげにさえずり続けている。

 この世界は、今日も完璧に美しく、完璧に狂っている。

 湊はまだ知らない。

 その違和感こそが、百年の眠りから覚めた「バグ」の胎動であるということを。

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