第二章 始まりは青い春④

 自分で言うのも悲しいが、賢人は自分のことを人一倍安定思考の持ち主だと考えている。余計な諍いなんか真っ平だし、できることならずっと凪の中で生きていたい。ありがたいことに容姿も平凡で、皆が羨むような特別な才能もない。いつからこんな性格になったかは遡って行けば小学生時代に辿り着くけれど、特別思い出したい輝かしい記憶ではないから、出来ることならこのまま記憶の奥底にずっと仕舞っておきたい。


五十嵐桜子いがらしさくらこ、です。……よろしくお願いします」


 ただそれだけのシンプルな自己紹介をぼんやりと聞きながら、周りと合わせて拍手を数回。一年間一緒に美化委員を務める人の名前を聞きながら、嵐に花だなんてなんだかチグハグな印象を受けるなぁ。それに、あの派手な見た目で桜子とは何とも古風な名前だ、なんてことを他人事のように考えていた。

 始まったばかりの自己紹介は人によってまちまちで、彼女のようにシンプルに終わらせる者もいれば、笑いを取りに行く者、少し変わった挨拶をする者まで様々だ。秋山さんの時は少しだけ複雑そうな顔をしていた光輝も、自分の番になればすぐにいつもの調子で軽やかに自己紹介を済ませていた。


 登校する時は学校で何を言われるんだろうかとびくびくしていたけれど、クラスメイト達は昨日のことなどもう忘れてしまったように、各々が好きなことをして過ごしていた。昨日観たスプラッタ映画のせいで中々寝付けなかったことも含め、悶々と悩んでいたのが馬鹿みたいだ。

 天気は昨日の快晴とは打って変わり、生憎の雨模様。雨脚は強く、おそらく昨日の桜も僅かを残して散ってしまうことだろう。

 イントロダクション程度の授業をいくつか受け、ようやく訪れた放課後になっても、雨脚が弱まることはなかった。


「それじゃあ昨日各委員に選出された人は、さっき伝えた教室に遅刻せずに向かうようになー」


 鈴木先生のその一言を合図に、その日の授業は終わりを迎えた。気のせいかもしれないが、色々な視線がこちらに向いている気がして、賢人はそそくさと教室を出る。


 先程先生から伝えられた三年生の教室へ向かうと、おそらく事前に委員長を任命されたのであろう三年生が、教卓の前で単語帳を開きながら、二年生はあっちと雑に誘導してくれる。周りでは押し付けられたのであろうやる気のない生徒達が、何を話すでもなく、各々の過ごし方で委員会が始まるのを待っている。賢人も周りに習い、席に着くなり持ってきていた小説を鞄から取り出して読み始める。


 ぱらぱらとページを捲っていると、周りがざわざわとしていることに気が付いた。もう会が始まるのだろうか。せっかく良いところだったのにと顔を上げると、こちらを見ている数人と目が合った。いや、正確には見ているのは賢人ではなく、その隣の――賢人は喉まで出かかった悲鳴を、強靭な精神力で何とか飲み下す。そのせいで、喉がヒリヒリと痛んだ。

 別に、彼女も同じ美化委員なのだから、この教室にいること自体は不思議ではない。でも、こんなに席が空いてるのに、どうしてわざわざ隣に座っているんだろう。五十嵐さんは周りの視線など素知らぬ顔であの日見た時と同じく、スマホに向けて何やら文字をひたすらに打ち込んでいる。相変わらず整っているその顔立ちに、嫌でも視線が吸い込まれる。いやそんなことより、だ。


「な、ど、いが、さんっここすっ」


 なんで? どうして五十嵐さんがここに座ってるの? そう問いかけたかったはずなのに、口から出てきたものは自分でも何と言ってるのか分からないもので、賢人は自分のことなのに情けなくて悲しくなる。

 隣に座っている五十嵐さんはそんな賢人に、一瞬訝しげに眉根を寄せたけれど、特別何か言うわけでもなく再び手元のスマホに視線を落としてしまう。

 別に喋りたかったわけではないが、それはそれで少しばかり悲しい気持ちにはなる。と言うより、本当になんで五十嵐さんは当然とばかりに隣に座ってるんだよ。確かに、同じクラスだから周りに知人がいなければ、僅かでも知ってる人の隣に座ることもあるかもしれないが……いやそれでもこんなに席が空いててわざわざ隣に座るか? あんな痴態を晒しておいて何だが、こんな変な奴が隣にいるのに席を立つ気配も今のところはない。


「お腹、空いてるの?」

「え?」


 悶々と考えていた賢人の前に、突然差し出されたのはロカボナッツの小袋だった。状況が掴めずにいると、五十嵐さんは不思議そうに首を傾げる。その動きに合わせて錦糸のような髪がさらさらと肩から零れ落ちて、まるで見てはいけないものを見たような気がして、賢人は急いで視線を逸らした。


「お腹、空いてるんじゃないの?」

「確かにお腹は空いてはいるけど……これは?」

「だって、さっきココスって言ってたから」


 お腹空いたんだと思ってと続けた彼女は、どうして突然ファミリーレストランの名前を挙げたのか分からないまま固まってしまっている賢人に、ずいっと小袋を押し付ける。


「あり、がとう……」


 おずおずと差し出されたそれを受け取ると、五十嵐さんは満足したのか、「ん」とだけ呟いて再びスマホに夢中になってしまう。

 受け取ったものの、本当に食べても良いのだろうかと急に不安になる。それでも受け取ったものを食べないのは何だか悪い気がして、封を開けてアーモンドを一つ摘む。周りは人が増えて先程よりもざわざわとしていたけれど、二人の間には賢人がアーモンドを齧る音だけが響いていた。


 委員会では美化委員がしなければならない仕事の簡単な説明と、クラス毎に割り振られた水やり当番の日程と担当する花壇を説明されて終わった。

 文化祭と体育祭では各クラス毎のゴミ捨てや最後に後片付けをしなければならないらしいが、それを除けば二週間に一度の水やりをするだけで問題ないらしい。しかも聞いていた通り、当番の日に雨が降ればその日は免除となる。変に教師とやりとりがないことも踏まえれば、ある意味一番当たりの委員かもしれない。まあ、夏休みも強制的に同じ周期で出なければならないことだけは勘弁願いたいのだが。


 五十嵐さんは委員会が終わるとすぐに教室から出て行ってしまったため、賢人はそこでようやく肺に溜まっていた空気を一気に吐き出した。光輝から秋山さんと別れたと聞かされてから、どうにも胸の奥底がざわざわと落ち着かない日が続いている。

 確かに昨日のスプラッタ映画は現実から気分を逸らしてはくれたけれど、心を落ち着かせてくれることはない。外はまだまだ雨は降り止みそうもなく、それがまた一層賢人の心をブルーにさせる。


「……雨なあ」


 雨は好きじゃない。だって、どうしても思い出したくない記憶がよみがえってしまうから。

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