第44話 揺れる言葉と皇女の決意
大聖堂の空気は、さっきまで「言葉」で保たれていた。
聖火の前で語られる言葉、祈りの言葉、裁きの言葉。整った言葉が整った沈黙を作り、沈黙がまた言葉の重みを増していく。
けれど今、その鎖が外れている。
エリアスが広げた紙。
そこに押された印。そこに書かれた名。
皇女の手元に渡った瞬間から、台本の上に乗っていたはずの世界が、わずかに傾いたまま戻らない。
エルナは立っていた。
肘掛けに残った自分の指の熱が、まだ冷めていない。
指先に残るのは紙のざらつきだ。
報告書の縁。
封蝋の欠片。
朱肉の匂い。
彼女は、聖火を背に、群衆の方を見た。
貴族の視線。
軍の視線。
聖職者の視線。
それらがひとつの方向を向いている。――自分の口だ。
だからこそ、言わなければならないことがあった。
彼女が言わないかぎり、誰かが別の言葉で整えてしまう。
「……私は、誰も処刑しないと言いました」
声は通った。通りすぎるほど、通った。
群衆がその一文を知っているからだ。帝都の空気に刷り込まれた標語。聖火の前で掲げられた旗。
「でも——」
エルナは息を吸った。
香の匂いが喉の奥に刺さる。火を飾る匂い。隠す匂い。
「その旗の下で、紙の上だけが綺麗になっていくのを……私は見過ごしていた」
言い切った瞬間、民衆席のどこかが揺れた。
「皇女が認めた」という事実が、人の気持ちを一段だけ先へ押しやる。
エルナは続ける。続けないと戻される。
「戦争の名目も、戦後の処理も——私は、自分の名がそこに添えられているだけで、どこかで安心していたのかもしれない」
胸の奥が痛む。
けれど痛みがあるうちに言う。痛みが消えたら、また飾りの顔に戻ってしまう。
「同胞保護。秩序の防衛。救済。……美しい言葉で、火は正当化されました。そして戦後は、同じ美しい言葉で、徴発も移送も『手当』と書き換えられた」
紙の上に並ぶ語句が、彼女の口から吐き出される。
言葉にした途端、言葉が血を帯びる。
エルナは、手元の文書を握った。
指先が白くなる。
「私は——そのどちらにも、自分の名を貸していた」
一拍。
その一拍に、彼女の中の何かが決定的に崩れる。
「……私の統治は、やはりただの看板だったのかもしれない。私は、真実ではない戦争の名目を飾る冠で、戦後処理の泥を隠す布で——そのためだけにここにいるのだとしたら——」
言ってしまった。
自分で自分の足場を揺らす言葉を、聖火の前で。
ざわめきが生まれる。
貴族席が先に反応した。
「殿下がそこまで」とささやきが走り、軍の将官の肩がわずかに前へ出る。
民衆席は逆に息を止めた。皇女の口から出た疑いは、許されるのか、許されないのか。空気が判断を探す。
その「判断」の隙間に、穏やかな声が差し込んだ。
「殿下。それ以上の自己断罪は不要です。責任は我々老いた者が負います」
枢機卿ラドヴァンの声だった。
優しい声。慰める声。
けれどそれは、火事場で子どもの肩を抱いて外へ連れ出すときの声にも似ていた。
「ここから先はあなたの言葉ではない」と、黙らせる声。
エルナは、顔だけは動かさずにラドヴァンを見る。
その穏やかさが、今は怖い。
「……あなたが負うのは、どの責任ですか」
エルナは、わずかに掠れた声で返した。
掠れたのに、言葉は鋭かった。
「紙に押された印の責任ですか。それとも——紙の下で沈んだ名の責任ですか」
言った瞬間、セラのペン先が止まるのが見えた。
止まり、すぐに動く。
止めてはいけないと知っている手の動き。
ミラの指も止まらない。
端の机。白い議事録用紙。
インク壺の黒が、聖火の光を吸って光る。そこに残す文字が、いまこの場を決める。
ラドヴァンは表情を崩さない。
崩さないまま、やさしく息を吐いた。
「殿下。いまは——」
その言葉の続きが、破裂音に飲まれた。
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