第41話 まだ「悪役」ではない

 (聖イルミナ暦一〇三六年 十一の月)


 鐘の余韻が、石の天井に吸われて消えた。

 その瞬間、聖火大聖堂の空気は、いっそう固くなる。吐く息の白さすら、誰かの視線に見張られている気がした。


 人は、音のない場所でこそ騒ぐ。

 椅子の軋み、咳払い、毛皮の擦れる音。

 貴族席の香油の甘さと、民衆席の濡れた毛布の匂いが混じり、冷えた空気に層を作る。

 その層の中心に、ひとりの男が立った。


 枢機卿ラドヴァン・メルク。


 白い祭服の縁取りは赤く、胸元の炎輪の紋章が、聖火の揺れを受けて微かに光る。杖は傍らに立てかけられている。

 動作は遅くもなく速くもなく、石のように落ち着いていた。

 彼が一歩前へ出ただけで、ざわめきが下がる。

 誰かに命じられたわけでもないのに、喉の奥が勝手に黙る。

 あれは権威ではなく、もっと単純なもの――「この声を聞くと安心してしまう」種類の毒だった。


 ミラは端の机でペンを握ったまま、指の感覚が遠くなるのをこらえた。

 インク壺の黒い面に聖火が小さく映り、揺れるたびに自分の顔が歪む。

 紙は白い。白すぎる。雪より白い。そこに書かれる言葉は、真実の顔をする。


 ラドヴァンが、聖火に向かって短く祈った。

 古い定型句だ。ミラでも孤児院で聞いたことがある。


 ――一なる光よ、名を忘れたまうな。


 けれど、ここでそれが唱えられると、祈りが祈り以上のものに変わる。

 彼は顔を上げ、身廊全体を見渡した。

 視線は鋭くない。厳しくもない。むしろ、慈しむように見える。だからこそ、誰も目を逸らせない。


「本日は、聖火のもとで真実を確認し、悔悟と赦しの道を示すための場です」


 低い声だった。

 けれど、よく通る。

 石の壁に反射して戻ってくる声が、もう一人のラドヴァンのように重なる。大聖堂そのものが同意しているように錯覚する。


「帝国は戦を終えました。北境はなお傷つき、遺族はなお眠れず、名もなく倒れた者の影は、雪の下に残っています」


 民衆席のどこかで、小さく嗚咽が漏れた。

 ラドヴァンはそれを見逃さない。だが追い詰めもしない。言葉をそこへ置くだけだ。


「だからこそ、私たちは今日、罰ではなく秩序の話をしなければならない。秩序があるからこそ、悔悟は形になり、赦しは光になります」


 秩序。


 その言葉が出た瞬間、貴族席の肩がわずかに緩むのが、ミラにも分かった。

 秩序は、持つ者にとって毛布だ。

 持たない者にとっては鎖なのに。


 ラドヴァンは、ゆっくりと審問席へ視線を移す。

 皇女エルナ・イルミナ・アウレリア。

 白い襟のついた、黒に近い濃紺の裁きの衣をまとっている。胸元には、王家と聖火を組み合わせた紋章が存在感を放つ。


「そして、殿下」


 呼ばれただけで、空気がさらに整う。

 殿下、と言われるたび、エルナはここに置かれた旗になる。個人の体温は、儀礼の布の下へ隠れる。


「殿下の慈悲は、多くの命を救いました。『誰も処刑しない』という方針は、弱さではありません。それは、戦後の帝国が持つべき強さです」


 民衆席から、わずかなざわめきが上がった。

 処刑しない――その言葉は、期待と不満を同時に呼ぶ。

 期待は甘く、不満は苦い。両方が同じ喉を通る。

 エルナはわずかに唇を引き結んだ。

 褒められているのに、肩が重くなる。褒め言葉が鎖になる瞬間を、彼女はもう何度も経験してきた。


 ラドヴァンは、そこでいったん間を置いた。

 間は、群衆に自分の感情を整理させる。

 整理された感情は、扱いやすい。


「ただし」


 声が一段、低くなる。


「慈悲の旗の下に、混乱を持ち込もうとする者もいます。先の未遂――「灰と光」の件を、皆も記憶しているでしょう」


 大聖堂の空気が、ざらりと変わった。

 「灰と光」。それは新聞の見出しであり、噂話の火種であり、何より帝都に残った恐怖の名前だ。

 誰かが息を呑み、誰かが袖で口を押さえた。


「混乱に乗じて火を利用しようとする者は、必ず現れます。しかし、聖火は決して彼らの側には立たない。火を奪う者は光を名乗れない。火は、照らすためにある。裁くためだけにあるのではない」


 その言葉に、民衆席のいくつかの顔が救われたように見えた。

 恐怖に名前が付くと、人は少し安心する。

 「敵は向こうだ」と指差してもらえると、今ここで何をしていいか分かるからだ。

 ミラは、その瞬間が怖かった。

 言葉ひとつで、人の心が整列していく。

 兵隊みたいに、音もなく、同じ方向を向いていく。

 ペン先が紙を擦る。

 ラドヴァンの言葉が、ミラの手の中で「公式の文字」になる。

 嘘でも真実でもなく、「記録」になる。

 記録は、後で人を裁く。

 ラドヴァンはさらに続ける。


「本日の場は、誰かの憎しみを満たすための場ではありません。まして、見せしめの火を焚くための場でもない」


 その一文は、民衆席へ投げられた石止めだった。

 「お前たちが求めているものは、ここにはない」と言いながら、同時に「ここで満たされるべきだ」と教える声。


「真実を確かめ、罪の輪郭を定め、悔悟があるならその言葉を聖火の前に置く。そして殿下の慈悲が届く形を、皆の目の前で示す」


 届く形。


 ミラは、昨日の書庫で嗅いだ紙の匂いを思い出す。

 形があれば、人は中身を確かめない。形が整っていれば、安心してしまう。

 安心は、最も簡単に利用される。


 それでも――。

 ラドヴァンの語り口には、冷笑がない。

 人を嗤う気配がない。

 むしろ、本気で秩序を信じているように見える。

 その本気が、いちばん厄介だとミラは思った。信じている者ほど、疑わないから。

 上段の貴族たちは頷き、軍の将官は腕を組み直し、光冠騎士団の兜の列は微動だにしない。

 セラは主記録官の席で目を伏せ、紙束の端を揃えた。彼女の指先がほんの少しだけ強く紙を押さえているのを、ミラは見た。


 ――紙の上で、何かが決まっていく音がした。


 ラドヴァンは最後に、エルナへ向き直る。


「殿下。今日ここで、殿下の慈悲が“弱さではない”ことを、帝都に示しましょう。火は、ただ燃えるのではなく、道を照らすのだと」


 その言葉は、エルナを持ち上げながら、同時に壇の中央へ縛り付ける。

 エルナは小さく頷いた。

 頷くしかない。頷かなければ、慈悲そのものが揺らぐ。

 ラドヴァンは席へ戻る。

 祭服の裾が石床を撫でる音が、妙に静かだった。

 大聖堂の視線が、次の役者へ移る。

 壇の下――印の刻まれた石床の上。

 光冠騎士団に囲まれた男へ。


 エリアス・ローレンが、息を吸う。

 その吸い込む音が、ミラにはやけに大きく聞こえた。


 舞台は整った。

 言葉の火が点いた。


 次に燃えるのが台本どおりの悔悟なのか、それとも――別の火なのかは、まだ誰にも分からない。

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