第36話 エルナ

 聖火大聖堂の地下へ降りる扉は、昼よりも冷たかった。

 扉の前の護衛が、エルナの顔を見て目を伏せる。

 止めない。止められない。

 皇女の顔は、こういうときだけ簡単に通る。


 鍵が回る。

 紙をめくる音より大きい音が、地下には少ない。

 石段を降りるほど、空気が湿り、油の匂いが濃くなる。

 香の匂いも混じるが、祈りの匂いというより、隠すための匂いだ。

 火はここでも灯っている。油灯の火。

 でも、生活の火ではない。


 最下段に着き、薄い鉄扉の前で止まる。

 護衛の気配が背後にある。

 エルナは振り返らずに言った。


「ここで待って。中へは入らないで」


 小さな間があって、短い返事が返る。


「……承知しました、殿下」


 扉が開いた。

 牢は狭い。

 石の湿り気と、鎖の金属と、古い布の匂い。

 そこに紙の匂いが薄く混じる。記録の匂いだ。

 奥の影が動く。

 壁にもたれて座っていた男が、ゆっくり顔を上げた。


 ルカ・ヴァレン。


 頬の腫れは引ききっていない。唇の端の切れ目は乾いている。

 それでも目だけが生きている。燃え残った炭の色。


「……また来たのか」


 声は低い。

 嘲りの形をしているのに、今日は少し疲れている。

 エルナは中へ入り、扉が半分閉まる音を背で聞いた。

 完全には閉まらない。閉まらないのは、監視のためだ。

 この会話もまた、完全には紙の外へ出られない。


 それでも、今日ここには——整える声がない。

 背中を押す声も、言葉を丸める声もない。

 エルナは、牢の中の粗末な椅子に座った。

 背の高い椅子ではない。

 座っても視線が上がらない椅子だ。

 その椅子に座った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

 自分の椅子が、どれほど上にあるかを思い知らされる。


「……今日は取調べじゃない」


 エルナは言った。


「記録もない。わたしだけ」


 ルカが鼻で笑う。


「へえ。姫様も紙が嫌いになったか」

「嫌いじゃない」


 エルナは首を振った。

 嫌いと言ってしまえば、それは逃げ道になる。

 逃げ道を作りに来たわけじゃない。


「じゃあ、何だよ」


 ルカが笑うでもなく言った。


「紙があるから、姫様はここにいる。違うか」

「……そう」

「だったら、紙のせいにすんな」

「……紙に乗ると、言葉が私の手を離れる」


 ルカが、ほんの少しだけ眉を上げる。


「都合のいい形にされるのが、怖い?」


 短い沈黙の後、エルナは少しため息をついて、言った。


「……怖いの」


 言葉が、静かに落ちた。

 怖い、と言った瞬間、肩の力が少し抜ける。

 抜けたことが悔しくて、エルナは続けた。


 言葉が、静かに落ちた。

 怖い、と言った瞬間、肩の力が少し抜ける。

 抜けたことが悔しくて、エルナは続けた。


「わたしは、ベレシア統治を任された。名目上は『わたしの統治』だと」


 ルカは黙って聞いている。

 嘲りを挟まない。挟まないことが、逆に怖い。


「『誰も処刑しない』と言った。あの言葉は嘘じゃない。嘘にしたくない」


 喉の奥が痛む。

 痛むのに、言わなければならない。


「……なのに、死者が増えたのなら」


 エルナは視線を落とした。

 落とした先にあるのは石の床と、ルカの鎖の影。


「わたしは、善い言葉を言って、かえって人を殺したことになる」


 胸の中で何かが軋む。

 軋む音が、油灯の揺れと重なる気がした。


「わたしのベレシア統治は、ただの飾りだったのではないか」


 言葉が止まらない。

 止めたら、また紙の上の自分が勝つ。


「飾りのまま、名前だけが先に走って……それで、紙の裏で」


 言葉が途切れ、息が浅くなる。

 それでも、最後だけは言い切った。


「……わたしには、資格がないのかもしれない」


 静かな声だった。

 静かすぎて、石壁に吸われる。

 次の瞬間、鎖が鳴った。

 ルカが動いた。

 金属が石を叩くみたいな音。

 そして、その音を押しのけるように、声が地下牢にぶつかって跳ね返った。


「――だったら、尚更だろうが!」


 怒鳴り声。

 油灯の火が揺れ、影が壁に暴れる。

 扉の外の護衛が身じろぎした気配がする。だが入ってこない。入ってこられない。

 今だけここは、殿下の「部屋」だからだ。


 ルカは息を荒くし、椅子に縛られた身体を無理に前へ出した。

 琥珀の目が燃える。怒りが頂点に達すると言葉が荒く短くなる——その通りの声。


「地位と力があるあんたにしか、変えられねえ世界があるだろうが!」


 エルナの喉が鳴る。

 怖い。


 でも、その怖さの中に、別の熱が混じる。怒りではない。熱。

 ルカは続けた。


「その椅子から降りたら、残るのは俺みたいな連中と火の粉だけだ!」


 「椅子」という単語が、エルナの胸を殴った。

 背の高い椅子。裁きの椅子。慈悲の椅子。

 降りる、という発想が、いま初めて現実の形になる。


「俺みたいな連中がやるのは、火と灰だ! 燃やして、灰にして平らにすることだ! それしか知らねえ!」


 ルカの声は枯れかけていたが、次の一言だけは、やけにはっきり聞こえた


「お前の名でしか作れない未来があるって、どうして気づかないんだ! エルナ・イルミナ・アウレリア!!」


 呼ばれた瞬間、エルナの胸が強く鳴った。

 殿下でも皇女でもない。

 演説の肩書でも、紙の上の称号でもない。

 祈りのときにしか使われないはずの、聖名を含んだ本名。


 その名は、守られるための名ではなかった。

 叱責の名だ。呼び戻す名だ。逃げる足首を掴む名だ。

 エルナは息を止め、次の瞬間、呼吸を取り戻した。


 石の冷気が肺へ入る。

 それが、紙の匂いよりずっと生きている匂いだった。

 ルカは怒鳴ったまま、途中で声を失いかけた。

 荒い呼吸が喉に引っかかる。

 それでも目だけは、逸らさない。


 そして——怒鳴り続けた自分に、ようやく気づいたように、ルカの声が一瞬だけ途切れる。

 途切れ方が、妙に人間くさい。

 ルカの目が、わずかに揺れる。

 怒りではない。驚きだ。


(……俺は、何を言ってる)


 「全部壊して灰から起こす」と叫んできた自分が、皇女に「椅子に座れ」と言った。

 守れ、と言った。

 しかも、名で呼んだ。祈りの名で、呼び戻した。


 矛盾だ。


 矛盾しているのに、口から出た。

 出たということは——その矛盾の奥に、別の真実がある。


 ルカは口を閉ざした。

 飲み込むしかなくなった。

 鎖の音が小さく鳴り、荒い呼吸だけが残る。

 牢の中に沈黙が落ちた。

 怒鳴り声の余韻だけが、石壁に残っている。


 エルナは沈黙を怖がらなかった。

 怖いのに、怖がらないふりでもない。

 ここで引き返したら、また紙の上の人間に戻ると分かった。

 エルナは息を吸う。

 紙の匂いではなく、湿った石の冷気を吸う。

 そして、言った。


「……いま、わたしを「その名」で呼んだ」


 確認する声。責める声ではない。

 自分の足元を確かめる声だ。

 ルカは答えない。

 答えれば、また自分の信念が崩れる。崩れたくないのか、崩れてしまうのが怖いのか——自分でも分からない顔だ。

 エルナは続けた。


「殿下でも、皇女でもなくて……逃げようとした私に、名で縄をかけた」


 縄、と言って、エルナは自分で少しだけ眉を寄せる。

 縄は裁きの道具だ。

 けれど今夜、名は裁くためではなく、落ちる前に掴むためのものだった。

 エルナは膝の上の手をほどき、置き直した。

 震えは残っている。残っているのに、逃げない。


「わたしは……椅子を降りない」


 短い言葉。短いから嘘にしにくい。


「でも、座っているだけの人間にもならない」


 ルカが、かすかに鼻で息を吐いた。

 笑いかけて笑えない音。

 エルナは続ける。


「わたしは、紙を使う」


 言いながら、自分の中で何かが整っていくのを感じる。

 整うのは紙の整いではない。自分の骨の整いだ。


「紙に殺される数を減らすために、紙を使う……紙の外で消える人を、紙の中へ戻すために」


 ルカの目が、わずかに細くなる。

 怒りではない。見極めだ。

 この女が紙の上の飾りなのか、紙の外で踏ん張れるのか。

 エルナは見極められていると分かった上で、言葉を続けた。


「わたしは、あの言葉を嘘にしたくない。『誰も処刑しない』を、標語じゃなく、現実にしたい」


 声は小さい。

 でも、落ちない。


「そのために、何を捨てればいいのか。何を守ればいいのか。……まだ分からない」


 分からない、と言った瞬間、ルカの口元がわずかに歪んだ。

 ルカは何も言わない。

 言えば信念が崩れる。崩れたくないのか、崩れてしまうのが怖いのか——それすら自分で分からない顔だ。


 エルナは立ち上がった。

 椅子が小さく軋む。その軋みが、背の高い椅子の重さとは違う現実の音に近いのが胸に残る。


「……今日は、これだけ」


 扉の方へ歩きながら、エルナは一度だけ振り返った。

 ルカの目が、まだこちらを追っていた。

 怒りの目ではない。嘲りの目でもない。

 その目の奥に、ひびが入っている。


 ——この女は、まとめて灰にする対象じゃないのか。


 ルカは、そう思った自分を、自分が一番信じられなかったことに、今日初めて唇の端で笑った。


 扉の外へ出る。

 石段を上がる。

 聖火の匂いが少しずつ濃くなり、地上の空気が戻ってくる。

 回廊へ戻る途中、エルナは手袋の上から指輪に触れた。

 公印の指輪。紙に押すための指輪。

 その冷たさが、今日はいつもより確かな重さを持っていた。


(選ばれた統治者)


 その言葉は、今まで紙の上の肩書だった。

 今夜、名で呼ばれて、初めて現実の骨になりかけた。


 エルナは背の高い椅子へ戻る。

 戻って、降りない。

 降りないまま、紙の刃を鈍らせる。


 十二の月の火は高い。

 けれど、地上の冷たさを知った火種が、胸の奥でひとつ、確かに息をし始めていた。

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