第2節

第1小節 二度寝を許さないための小協奏曲その2

森に沈むパッション寮の朝は、学園の朝より少し遅く、少し湿っている。


 窓辺のガラスは夜露で白く曇り、薄い日差しが差し込んでも、部屋の空気はすぐには温まらない。木の床板はまだ冷たく、足を下ろしただけでじわりと眠気が足首から戻ってくる。


 そこへ、音が来た。


 目覚まし時計の電子音とは違う。金属でも、ガラスでも、正体のわからない膜で空気を撫でるような響き——柔らかいのに芯があり、丸いのに遠くまで飛ぶ。


 サクソフォン。


 符楽森坼音は布団の中で眉を寄せ、薄く目を開けた。音は近い。というか、これ、同じ部屋の距離だ。


 上段ベッドの柵の隙間から覗き下ろすと、下段ベッドに腰掛け、自前のサクソフォンを構えている青中共史がいた。髪はまだ少し寝癖が残っているのに、背筋だけは妙に真っ直ぐで、口元には昨夜の名残のようなニヤつきが浮かんでいる。寝起きの少年が持つべき“だるさ”が、そこだけぽっかり抜け落ちていた。


 共史は、坼音が起きたことに気づいているのかいないのか、視線も向けずに音を紡ぐ。拍はない。けれど散らばらない。音がふと寄り添い、また離れ、また寄り添って、気づけばそれが“曲”と呼べる形になっていく。


 坼音は、枕を抱えたまま上半身を起こした。


「……おはよ。いい目覚め?」


 共史が吹くのを止めもせず、口だけで言った。


「よくない……!」


 坼音は、布団の中から抗議の目を向ける。声は小さいのに、顔だけは大げさに不満を作っている。


「心臓止まるかと思った……!」


 共史は、口角だけをくいっと上げた。


「二度寝を許さないための小協奏曲、その2」


「物騒すぎる……。協奏曲ってそういうことじゃないでしょ……」


「ここ、パッション寮だぜ?」


 意味がわからない。だが、共史が“わかってない顔をする坼音”を楽しむときは、こういう理屈の飛躍を平気で持ち出す。


 音は、細くなり、少しふざけるように高く跳ね、最後にふわりと床板の冷たさを丸めて終わった。


 終止の余韻が消え切らないうちに、隣の壁——つまり女子部屋のほうから、どん、と鈍い音がした。次いで、何かを踏み鳴らすような足音。空気がピリ、と変わる。


 共史が目を細める。


「……あ」


 次の瞬間、男子部屋の扉が乱暴に開いた。


 金髪のポニーテール。海のように青い目。

 イヴォナ・ケロル・グランヴァルトは、朝の光を背に、悪魔のような顔で立っていた。


 寝起きとは思えない“殺気”がある。いや、寝起きだからこその殺気かもしれない。


「うるさい」


 たった一言。


 共史は、あっさりと頷いた。


「おはよ、イヴォナ」


「おはようじゃない」


「そう?」


 共史は本当に不思議そうに首を傾げる。火に油を注ぐ才能が、この男にはある。


 イヴォナは共史を睨み、次に上段の坼音を見上げた。坼音は反射的に背筋を正し、布団を胸まで引き上げた。何も悪いことはしていないのに、悪いことをした気になる。


「……おまえ、止めろって言え」


「え、僕?」


 突然の飛び火に、坼音の声が裏返る。


「……共史がやってるから……」


「止めろって言え」


「いや、でも……共史は……止めないし……」


 共史が口を挟む。


「止めたよ。ほら。今、止まってる」


「今さらだろ」


 イヴォナの眉間の皺が深くなる。視線だけで床に穴が開きそうだ。


 そこへ、扉の隙間から、ぬるりと白いものが滑り込んできた。


 鍵宮白音だった。


 白い髪。白い肌。白い服。

 昨夜の掃除で埃まみれになったはずなのに、なぜか今日も白い。存在感が“白”そのものの少女は、眠そうな目をしながら、状況を一瞬で理解したように頷いた。


「なるほど。これは——」


 白音は息を吸い、淡々と告げた。


「パッション寮の朝、最悪の始まり方ランキング、暫定一位」


 共史が吹き出す。


「白ちゃん、辛辣」


「事実です」


 イヴォナが、白音を睨む。


「……おまえも、うるさい」


「私はまだ音を出していません」


「存在がうるさい」


 白音は少し考え、素直に頷いた。


「ありがとうございます」


「褒めてない!」


 イヴォナの声がわずかに大きくなる。共史は肩を震わせて笑いそうになるのを堪え、坼音は上段で気配を消そうとするが、そもそも上段にいる時点で目立つ。


 白音は、ふと共史のホルンに視線を落とした。


「さっきの、なんていう曲?」


「二度寝を許さないための小協奏曲、その2」


「……二度寝、する気だったんだ」


 ”その1”があったの?とも言いたげな白音の目が坼音に向く。坼音は言い訳の準備をするより先に、心が折れた。


「……してない……」


「した顔」


「してないってば……!」


 イヴォナは舌打ちをし、扉を半分閉めかけた。去るのかと思いきや、最後に振り返ってもう一度共史を睨む。


「次やったら、サクソフォンそれへこませる」


「おっかねえ。やめて。俺の“顔”だから」


「顔ならへこんでもいいだろ」


「よくねえよ!」


 イヴォナは扉をバン、と閉めた。


 残ったのは、朝の湿った空気と、共史の笑いを飲み込む喉の震えと、坼音の「子の寮本当に大丈夫かな」という気配だった。



 それでも、腹は減る。


 生活は、容赦なく前へ進む。


 台所に行くと、昨日の“掃除の成果”がそれなりに残っていた。床はまだ艶を取り戻していないが、埃の匂いは薄くなっている。蛇口から出る水は冷たく、指先がきゅっと縮む。


「朝ごはん、どうする?」


 白音が棚を開けながら言う。棚の中には、昨日ちゃっかりと学園から持ち込んだ食材が中途半端に並んでいた。パン、卵、ベーコン、安いジャム、牛乳。——そして、なぜか大量のインスタント味噌汁。


「寮食が出ないの、やっぱり納得できないんだけど」


 坼音が小さく呟くと、共史が肩をすくめる。


「名門音楽学園で、寮生が寮食作るって前代未聞だよな」


「だよね……?」


 坼音が同意を求めると、白音が淡々と言う。


「前代未聞かどうかは、統計を取っていないので不明です」


「そこ、否定しないで……」


「でも“普通じゃない”のは確か」


 白音は冷蔵庫を開け、卵を二つ取り出した。殻を割る音が、静かな台所に小気味よく響く。


 共史はフライパンを火にかける。鉄が温まる匂いがする。そこへベーコンを落とすと、じゅっ、という音とともに脂の香りが立ち上る。たったそれだけで、寮が少しだけ“家”になる。


 坼音はパンをトースターに入れた。スイッチを入れると、赤い光が点き、機械の低い唸りが始まる。なんだか、それが妙に安心する。


「イヴォナ、呼ぶ?」


 共史が言う。


「……また怒られる」


 坼音が正直に言うと、共史は笑った。


「怒られたら俺が受ける。おまえは泣くな」


「泣かない……!」


 白音が、台所の奥の棚を指差した。


「砂糖と塩、どっちがどっちかわからない瓶があります。どちらかが塩です」


「怖すぎる」


「挑戦する?」


「しない」


 そのやりとりの間にも、料理は進む。卵は半熟。ベーコンは少し焦げ目。味噌汁は湯気だけが立派で、具は申し訳程度のわかめ。


 テーブルに皿が並んでいく。


 その光景が、昨日よりも少し自然だった。


 共史が女子部屋の扉を軽く叩く。


「イヴォナー。飯」


 返事はない。だが、数秒後、扉がきぃ、と小さく鳴って開いた。


 イヴォナは、髪をまだきちんと結びきっていない。ポニーテールが少し崩れたまま、目は眠そうなのに、眉間だけは習慣のように険しい。


「……」


 無言で席につく。昨日と同じ、端のほう。逃げ道のある位置。


 誰もそれを指摘しない。


 トーストが焼ける匂い。

 ベーコンの脂。

 味噌汁の湯気。


 食器が触れ合う小さな音が、言葉の代わりに流れていく。


 坼音は、味噌汁を一口飲んで、思わず顔をしかめた。


「……うすい」


「だろ。味噌、入れた量、気持ちだから」


「気持ちで味噌汁作るな」


「……音よりマシ」


 イヴォナが、ぽつりと言った。


 共史が目を丸くする。


「え、今、なんか言った?」


「言ってない」


「いや言っただろ」


「聞き間違い」


 白音が淡々と結論を出す。


「つまり、さっきのなんとか小協奏曲その2は、このうっすい味噌汁以下」


「そんな評価ある?」


 イヴォナはトーストを手に取り、何も言わずにかじる。

 けれど、怒りの熱は少しだけ落ち着いているように見えた。


 坼音は、湯気の向こうの彼女を見ながら、昨夜の決意を思い出す。


 ——音楽に向き合う。


 その言葉はまだ胸の中で温かいが、現実の朝はそれよりずっと具体的で、ずっと厄介だ。


 パンくずが落ちる。

 皿が鳴る。

 誰かの咀嚼のリズムが、微妙に合わない。


 この寮では、言葉より先に、生活が進む。

 昨日、確かにそうだった。


 今朝も、そうだ。



 朝食を終えると、四人は買い出しの準備をした。


 来週から始まる新学期に向けて、教科書やら、楽器の備品やらを買いに行かなくてはいけない。


「俺、リスト作った」


 共史が紙をひらひらさせる。字が妙に綺麗で腹立つ。


「準備いいな……」


「準備しないと死ぬの、昨日学んだ」


 白音が頷く。


「掃除の次は、備品管理です」


「おまえら、生活力の方向性が極端すぎる」


 イヴォナは黙ってついてくる。

 それだけで、今日は上出来だ。


 森を抜け、学園内の整った石畳へ出ると、空気が変わる。人の匂いが濃くなる。制服の擦れる音が増える。笑い声が飛び交う。


 どれほど歩いただろうか、視界の先に“別世界”が現れた。


 ジングシュピール寮の生徒たち。


 制服は同じはずなのに、なぜか違って見える。背筋の角度、歩幅、靴音。空気の使い方が違う。自分たちが“森の外側”なら、あちらは“学園の中心”だ。


 誰かが言った。


「見て、琴音だ」


 その名だけで、周囲の視線が一斉に集まる。


 天使、と呼ばれるヴァイオリニスト。音原琴音。

 彼女の歩くところだけ、空気が一段澄んでいるように錯覚する。髪の揺れ方も、目線の置き方も、すべてが整いすぎていて、むしろ現実味が薄い。


 その隣を歩く少女もいた。まるで刃物のように無駄のない存在感で、周囲のざわめきを切り裂いて進む。


 指宿花琳。


 “クール”では足りない。冷たいのではなく、熱を最初から必要としない感じ。言葉が少なくても、視線だけで場を支配できるタイプの人間。


 坼音は、思わず立ち止まりそうになって、やめた。

 近づくほど自分の輪郭が薄くなる。圧倒的な存在というのは、目を合わせるだけで格付けが終わる。


 共史が小さく息を吐く。


「……すげえな」


 白音は淡々と言う。


「別種族」


「言い方」


 イヴォナは、琴音を一瞬だけ見て、視線を外した。

 表情は変わらない。けれど、歩幅がほんの少しだけ強くなる。床を踏む音が固くなる。


 そして、その“別世界”の中に、もう一つ別の影がいた。


 鍵宮黒音かぎみやこくと


 白音と同じ顔立ち。けれど、目の光が違う。まっすぐなのに、どこか歪んでいる。きちんとしているのに、どこか危うい。


 黒音は歩きながら、こちらに気づいた。


 視線が白音を捉える。


 白音は、何も言わない。

 足も止めない。

 けれど、その瞬間だけ、まつげの動きが止まったように見えた。


 黒音は口を開かなかった。

 代わりに、ほんのわずかに目を細めた。


 それが笑みなのか、確認なのか、拒絶なのか、わからない。


 そして、何事もなかったように通り過ぎていく。


 残ったのは、朝の光の中に落ちた薄い影だけだった。


 共史が、わざと軽く言った。


「買い物、行こ。俺らは俺ら」


 坼音は頷き、白音も頷き、イヴォナは無言で歩き出す。


 四人の靴音が、石畳の上で一つになっていく。


 あの圧倒的な世界のすぐ隣で。

 自分たちの生活が、今日も進んでいく。


 ——二度寝なんて、している暇はない。

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