第11小節 戻るべき場所?

教会の中は、静かだった。


 あの夜に流れていた第九の響きは、もう鳴っていない。

 けれど、音が消えたというより――

 そこに“在る”ことが、当たり前になったような空気だった。


 石の床に腰を下ろしたまま、坼音は天井を見上げていた。


 回想は、もう終わっている。

 けれど、胸の奥にはまだ、ゴルトベルク変奏曲の余韻が残っていた。


 ——音楽は、生きている。


 あの夜に抱いた感覚は、間違いじゃなかった。


「……落ち着いたか」


 低い声が、空間を震わせた。


 振り向かなくても分かる。

 そこに立っているのは、第九だ。


「はい」


 坼音は、素直に答えた。


「……ちょっと、整理できました」


 第九は、ゆっくりと歩み寄り、向かいに立つ。


「君は、音霊ではない」


 唐突な言葉だった。


旋律メロディアも使えない。

 音楽を力として振るう存在ではない」


 坼音は、黙って頷いた。


 もう、それは分かっていた。


「それでも」


 第九は続ける。


「君には、この世界の“秩序”を感じ取る力がある」


 重い言葉だったが、押しつける響きはなかった。


「調和が崩れると、違和感を覚える。

 音が歪むと、胸がざわつく」


 まるで、見られていたかのような指摘。


「それは、才能ではない」


 第九は、はっきりと言った。


「血筋でも、特別な力でもない」


 その言葉に、坼音は少しだけ息を吐いた。


「君が“音楽と向き合ってきた時間”が、

 そうさせているだけだ」


 沈黙が落ちる。


「だから、私は君に頼みたい」


 第九は、静かに言った。


「いずれ、この世界を守る側に立ってほしい」


 坼音の心臓が、どくりと鳴る。


「でも」


 すぐに、第九は続けた。


「今すぐではない」


 仮面の奥から、視線が向けられる。


「まずは、自分の世界で音楽を学びなさい」


「……音楽を?」


「努力することだ」


 その言葉は、驚くほど現実的だった。


「特別な修行も、秘術もない。

 ただ、音楽と向き合え」


 それだけでいい、と。


 坼音は、少し考えてから、口を開いた。


「……頑張れば、いいんですね」


「そうだ」


 第九は、満足そうに頷いた。


「それが、君にできる唯一の準備だ」


 教会の奥が、ゆっくりと光を帯び始めた。


 あの森で見たのと同じ、

 音とも光ともつかない、淡い揺らぎ。


「帰る時間だ」


 第九の声は、静かだった。


 坼音は立ち上がり、もう一度、教会の中を見回す。

 石の床。高い天井。空気に残る、かすかな響き。


 ここで聞いた音も、言葉も、

 不思議なほど、すっと胸に収まっていた。


「……行ってきます」


 そう言うと、第九は何も答えず、ただ頷いた。


 光が、足元からせり上がる。


 視界が白く溶けていく中で、

 ゴルトベルク変奏曲の声が、どこか遠くで聞こえた。


「またね、指揮者さん」


 次の瞬間。



 冷たい石の感触が、背中に伝わった。


 坼音は、ゆっくりと目を開ける。


 そこは――森の中の教会だった。


 現実世界の、あの古い教会。


 ステンドグラス越しの朝の光が、床に色を落としている。

 パイプオルガンは沈黙し、空気はひどく静かだった。


「……」


 坼音は、起き上がる。


 夢だったと言い切るには、

 胸の奥に残る感覚が、あまりにもはっきりしていた。


 指先に、わずかな震えが残っている。


 彼は深く息を吸い、吐いた。


「……帰ろ」


 教会を出ると、森は朝の匂いに満ちていた。


 木々のざわめき。湿った土の匂い。

 遠くで鳴く鳥の声。


 全部が、少しだけ鮮明に感じられる。


 学園へ戻れば、新しい寮。

 新しい生活。


 そして、音楽。


 坼音は歩き出す。


 背中に、もう一度だけ教会を感じながら。

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