第4小節 悪魔と幽霊

玄関扉は、思った以上に重かった。


 共史がノブに手をかけ、体重を預けるように押すと、木が軋む低い音が腹の底に響く。

 ぎい、と、長い間閉ざされていたものが、ようやく息を吐くような音だった。


 扉の向こうから流れ出てきたのは、ひんやりとした空気と、埃の匂い。


 古い木材。

 湿った土。

 誰かがここで暮らしていた“痕跡”だけが残った匂い。


「……」


 坼音は無意識に鼻を押さえた。


「想像以上だな」


 共史は面白がるようにそう言いながらも、視線は慎重に室内を走らせている。


 廊下は細く、天井は低い。

 壁紙はところどころ剥がれ、床板は歩くたびに小さく鳴った。


 昼間だというのに、窓から差し込む光は弱く、

 空気はどこか夕暮れ時みたいに沈んでいる。


「……ねえ」


 坼音は小声で言った。


「これ、本当に寮……だよね?」


「寮ってことになってる」


「“ことになってる”って何……」


 言葉にしてみると、胸の奥がじわりと不安で満たされる。


 学園の中心部にあった寮とは、何もかもが違う。

 人の気配。

 音。

 匂い。


 ——ここは、隔離された場所だ。


 そう思った瞬間だった。


「……何してるの」


 低く落ちた声に、空気が一瞬だけ張りつめた。


 金色のポニーテール。

 青い目が、値踏みするみたいに二人を見ている。


「勝手に入らないで」


 共史は一拍だけ間を置いてから、あっさり言った。


「今日からここに入ることになった。青中共史」


 指で後ろを示す。


「こっちは符楽森坼音」


 少女は二人をじっと見て、少しだけ口を結んだ。


 ——と、そのとき。


「ばぁ」


「うわっ!?」


 白音の声に坼音が跳ねる。


 階段の途中、白い少女が楽しそうに笑っていた。


「鍵宮白音でーす。よろしく」


 軽い。

 場違いなほど軽い。


 共史は一瞬イヴォナを見てから、口角を上げた。


「……なあ」


「なに」


「もしかしてさ」


 わざと間を作る。


「今の、ちょっと怖かった?」


 イヴォナの眉が、ぴくりと動く。


「は?」


「いやほら」


 共史はにやにやする。


「いきなり幽霊出てきてさ」


「私幽霊じゃないんだけど」


 白音が即ツッコミ。


「……別に」


 イヴォナは目を逸らしてから漏らす。


「怖くない」


「へぇ〜?」


 白音が横から顔を覗き込む。


「じゃあ今、なんで耳赤いの?」


「……っ!」


 イヴォナの肩が跳ねた。


 共史がそれを見逃すはずもなく。


「え、マジ?」


「え、かわいくない?」


「いや待って、“悪魔”って聞いてたんだけど」


「それな。想像と違いすぎる」


 二人して、完全に楽しそうだ。


「ちょっと……!」


 イヴォナは一歩下がる。


「勝手なこと言わないで!」


 声は強いのに、語尾が揺れている。


「いや悪い意味じゃなくてさ」


 共史は笑ったまま言う。


「思ったより普通で、話しやすそうだなって」


「むしろ安心した」


 白音も頷く。


「ね。怖い人だったらどうしよって思ってた」


 その一言が、決定打だった。


「……もういい」


 イヴォナはぷい、と顔を背ける。


「出てくる」


「え、ちょ」


 止める間もなく、彼女は玄関へ向かい、外へ出ていった。


 扉が閉まる。


 少しだけ、静かになる。


「……」


「……」


 白音が首を傾げた。


「逃げたね」


「逃げたな」


「照れ耐性ゼロだ」


「ゼロだな」


 坼音だけが、玄関の方を見ていた。


 胸の奥が、落ち着かない。


「……森、暗いよ」


 共史が言う。


「俺らが行ったら、余計逃げそうだな」


「うん」


 白音も即答。


「坼音が一番無害そう」


「それ褒めてる?」


「褒めてる褒めてる」


 坼音は少し迷ってから、立ち上がった。


「……行ってくる」


 理由は説明できない。


 ただ、さっきの背中が気になった。


 からかわれて、

 怒って、

 でも——たぶん、嫌われたわけじゃない。


 悪魔と呼ばれる少女は、

 人に踏み込まれるのが、ただ慣れていないだけだった。


 坼音は外へ出て、森へ向かう。


 その先にある出会いが、

 世界を動かすことも知らないまま。

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