Bull Dog -ブルドッグ-

銷魂 るいん

第1話 犬飼朱里の日常①

―世の中は理不尽でできている。


犬飼朱里は十五年、それを身をもって知っていた。


生まれる前に引かされた「くじ」

それが彼の人生を最初から狂わせていた。


親を選べない。

その事実は、どんな言葉より重かった。



今日も朱里は父と母の怒号で目を覚ます。


「どうするつもりなの?毎月毎月。ギャンブルにお金使って。また今月もお金残ってないじゃない!」


「うるさい!近所迷惑だろうが!」


「誰のせいだと思ってるの?」


「お前が働かせなくしたせいだろうが!」


「はぁ?勝手に仕事を辞めたのはそっちでしょ?」


廊下の向こうで、父と母の声がぶつかり合う。


壁が震えるほどの怒号。

時刻は午前一時。

眠れない日が、また始まる。



百均の耳栓なんて意味が無い。

両親の怒号は壁も耳栓もすり抜けて、朱里の頭に突き刺さる。


彼は天井を見上げ、静かにため息を吐いた。


朱里の両親は精神疾患を患っている。

そんな彼は犬飼家の一人っ子として生まれた。


父はうつ病で、さらにギャンブルに依存していた。

朱里が小学生になる頃から職に就いておらず、国の補助金で生活している。

しかしそのお金も父のギャンブルと酒とたばこに消えていく。

生活はいつも困窮しており

犬飼家では、食事が用意されない日も珍しくなかった。


お金が尽きると、父は「うつ病」を盾に色んな人から金を借りた。

薬を大量に飲んで自殺をほのめかし、

知人から脅すように金を引き出したこともある。


その借金は返済されることはなく、親戚や知人は次第に犬飼家から離れていった。


父と母の口喧嘩は約1時間続いた。


モノを机や壁にたたきつける音が響き

最後は父の

「やってられるか。俺はもう寝る!」

で幕は閉じた。



時刻は午前2時。


しかし、朱里の安眠はまたも妨げられる。

突然、部屋ドアがノックされ、母が勝手に部屋に入ってくる。

急に点けられた蛍光灯の光が目に刺さる。


「起きなさい。朱里。」


母は立ったまま愚痴を吐き始めた。


「父さん、またお金全部使っちゃったの。ほら、またギャンブルよギャンブル。勝った試しがないのに」


父とのケンカの後は母の愚痴を聞く時間になる。

これも日常だ。


「昔から、あの人はお金の使い方が荒くてね。

 母さんのおじいちゃんやおばあちゃんからもお金借りたのよ。

 頭下げてね、100万円もよ。100万。分かる?

 でも返さないの。1円も返さないのよ……」


(また始まった。)


「犬飼家の育て方がいけないのよ。

 あの人の周り甘やかす人ばっかりでしょ?

 あの人の両親が甘やかすから、あの人、あんなになっちゃったのよ。」


(この話何回聞いたんだろう)


「母さんが入院したときも母さんのお金勝手に使ってたのよ。

 貯金箱にコツコツ500円貯金でお金貯めていたのに入院から帰ってきたら、

 貯金箱のお金もタンスにしまっていたお金もなかったの。」


母は狂ったように父の愚痴を吐き続ける。

朱里は返事をせず黙って聞いていた。


しかし、その沈黙が、母の何かを刺激した。


「朱里!母さんの話面白くない?もしかしてアナタも母さんの事バカにしてるの?」


朱里はそんなことはないと言い訳したが母の耳には届かない。

母は突然、顔色と口調が変わる。


(、、、マズイ)


「親子そろって私の事バカにしやがって!!

 そうやって見下して、楽しいか?あ?

 馬鹿にするのもいい加減にしろ!」


「お前なんか生まなきゃよかったよ!まったく。」


怒鳴り散らすと、母は勢いよく扉をを閉め出ていった。


一人残された部屋に静寂だけが残った。

母のこの言動も病気の症状らしい。


そして、これが犬飼家の”普通”だった。



世間では親を選べない事を「親ガチャ」と言うらしい。


しかし、ゲームのガチャなら

自分が納得するまで何度もリセットすることができる。

俗にいう「リセットマラソン」というやつだ。


でも現実はそんな事できない。

選択権のない一度きりの大博打。

ホントに質が悪くて理不尽極まり無い。


だから、朱里はそれを「ガチャ」なんて


軽率な言葉で片付けたくはなかった。


***


気が付けば、時計の針は朝3時00分を指していた。


朱里は制服に着替え、その上に薄手のジャンパーを羽織る。

すり減った手袋をはめ、ポケットに薄っぺらい財布をポケットに突っ込み、最後に学生カバンを背負う。


「……いってきます」


誰に届くわけでもない声を残し、朱里は玄関を出る。


霜が降りた外はうっすらと白ばんでいた。

冷たい空気が肺の奥まで入ってきて眠気を一瞬で削いだ。


朱里は朝刊配達のアルバイトをしている。

父はここの社長に数百万の借金をしており、

その肩代わりとして中学生の頃から働かされていた。


中学生のバイトや高校生の早朝バイトは本来禁止だ。

だが、朱里の周りにはそんな事を気にする大人は誰もいなかった。


「おはようございます。」


事務所に入ると、配達分の新聞が無造作に積まれている。

朱里は身支度を整えると配達分の新聞を受け取り、

自転車のカゴに新聞の束を詰め込んだ。


他のスタッフたちはバイクで配達をする。

しかし、バイクの免許を持っていない朱里だけが自転車だ。


さらに朱里の配達エリアはここから数10km離れた一番遠い地区。

今日のような気候が厳しい時期は誰もやりたがらない場所。


借金の肩代わり”の立場上、断れない。

だから押し付けられた。


新聞配達は時間との闘いだ。

休めない。休めば遅れる。

遅れれば社長から怒鳴られる。


暗い道を走り、新聞を投げ込み、また走る。

息が白く散り、足は重く、手はかじかむ。


そして2時間かけて今日も何とか無事配達を終えることができた。


ようやく事務所に戻った頃には、空が白み始めていた。

朱里がいつも一番最後に事務所に戻る。


「ハイ、今月分。」

社長が茶色い封筒を投げてよこす。

今日は給料日だった。


ありがとうございます。と受け取り、

更衣室で封筒を開ける。

1000円札が2枚。


これがここでの朱里の1か月分の給料だ。



朝刊配達のバイトは時給1300円。

毎朝欠かさず働いても、給料の九割以上は父親の借金返済に消える。


朱里の手元に残るお金はたった2000円。


「悪いね。これも君のお父さんとの約束なんだ」


社長は悪びれもせず、給料を抜いていく。

朱里は何も言わない。

言ったところで何も変わらない。



さらに朱里は夜に居酒屋のバイトも掛け持ちしている。

そこも父の借金の肩代わりで、月の給料は2000円。


合計4000円。


それが朱里の毎月の"生命線"だった。


ここから自分のスマホ代、朝昼食代、

晩御飯無い日はその費用、

光熱費が払えない時はその補填もしている。


バイトを増やそうかとも考えた。

だが、国からの援助を受けている家庭は、

収入が増えると支給額を減らされるらしい。


だから現金手渡しの"裏"バイトしかできない。

だが、そんなバイト先は今時ほとんどない。


結局、朱里はこの地獄のような労働に縛られたままだった。


朱里は受け取った2000円を

大事に小さく折りたたみ

通学カバンの底に縫い付けた秘密のポケットに押し込んだ。


そして、学校へ向かうのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る