第3話:荒ぶる野ロバの誕生

第3話:荒ぶる野ロバの誕生


 天幕の外では、乾いた砂漠の風が唸りを上げていた。  けれど、ハガルの世界は今、沸騰するような熱と、逃げ場のない痛みに支配されていた。


「……あ、あ、あああああ!」


 産屋を兼ねた小さな天幕の中には、むせるような血の匂いと、滴り落ちる汗の湿った熱気が充満している。ハガルは、握りしめた敷布が千切れんばかりに指を食い込ませた。エジプトの女たちが、彼女の額を濡れ布で拭い、低い声で呪文のような励ましを唱える。


「ハガル、もうすぐだ。神が聞き届けられたその名を、呼ぶ準備をしなさい」


「痛い……痛い、サラ様が……サラ様が、私を……」


 意識の混濁したハガルの鼻腔に、ふっと、天幕の入り口から迷い込んだ冷たい夜気が届いた。その瞬間、かつてあの泉で浴びた御使いの光の圧が、記憶の底で弾けた。


(帰りなさい。その手に身を任せなさい)


 あの神の声は、呪いではなく、この痛みの先にある「約束」のためのものだったのか。  ハガルは最後の一息を、肺が裂けるほどに吸い込んだ。腹の底から、自分を縛るすべての隷属を叩き出すように、彼女は叫んだ。


 刹那。  産屋を支配していた重苦しい沈黙を、鋭利な刃物のような産声が切り裂いた。


「おぎゃあ! ぎゃあ! ああぁ!」


 それは赤子の泣き声というよりは、荒野を駆ける野ロバがいななき、天を蹴り上げるような、力強く、野性味に溢れた咆哮だった。


「……男の子だ! 強く、健やかな男の子だ!」


 産婆が叫び、血に濡れた赤子をハガルの胸に置いた。  ずしりと重い。  ぬめりとした温かさと、赤ん坊特有の、ミルクと生命が混ざり合ったような甘く濃い匂い。ハガルは震える指で、その小さな、けれど驚くほど激しく動く手足に触れた。


「……イシュマエル。私の、イシュマエル」


 ハガルの頬を伝う涙が、赤子の額に落ちた。その瞬間、彼女を縛っていた屈辱も、サラからの虐待の記憶も、すべてがこの小さな熱量によって焼き尽くされた。この子が私の光だ。この子が、私の誇りなのだ。


 天幕の垂れ布が大きく跳ね上げられた。  入ってきたのは、族長アブラハムだった。彼の顔には、これまで見たこともないような、剥き出しの歓喜が張り付いていた。


「ハガル……よくやった。よくぞ、我が子を産んでくれた」


 アブラハムは、産婆の手から奪い取るようにして赤子を抱き上げた。その逞しい腕が、赤子の柔らかい体を包み込む。アブラハムの大きな掌が、イシュマエルの背中をさすった。


「おお、なんという力強さだ。私の指をこれほど強く握るとは! イシュマエル、私の息子、私の命よ!」


 アブラハムは赤子を自分の顔に押し当てた。彼の剛い髭が赤子の柔肌を刺激したのか、イシュマエルはさらに大きな声で泣きわめいた。その泣き声を、アブラハムは音楽でも聴くかのように、目を細めて受け止めている。


 そのときだった。  天幕の入り口に、音もなく影が差した。  サラだ。


 彼女は、狂おしいほどに幸せな「父と子と母」の図を、冷徹な石像のような眼差しで見つめていた。その瞳には、かつての嫉妬を超えた、虚無に近い暗い火が宿っている。


「……おめでとうございます、アブラハム。あなたの望みが、ようやく叶いましたね」


 サラの声は、冬の朝の霜のように冷たかった。  アブラハムは一瞬、身体を硬くしたが、すぐに腕の中のイシュマエルに視線を戻した。


「ああ、サラ。見てくれ、この子を。神が私に約束された、最初の実りだ」


 アブラハムは無邪気に笑い、イシュマエルを高く掲げた。赤子の小さな足が空を蹴る。アブラハムが息子を抱きしめるたびに、彼の骨が鳴るような情熱が伝わってくる。


「……ええ。私の侍女が、立派に務めを果たしました。その子は、私の膝の上で育てられるべき子……わかっておいでですね、ハガル」


 サラの言葉に、ハガルの心臓が冷たく跳ねた。  本来、侍女が産んだ子は女主人の子として扱われる。ハガルは、自分の胸にあるこの温かな重みが、いつか奪われる運命にあることを思い出させられた。


 けれど、ハガルはサラの視線を真っ向から受け止めた。  産後の疲弊で目は窪んでいるが、その奥には御使いから授かった「選ばれた母」としての光が宿っている。


「サラ様。この子の名は、主が授けてくださいました。イシュマエル――神は聞き届けられた、と」


 ハガルの返答は、静かな宣戦布告だった。  サラの口角が、微かに歪んだ。


「……そう。聞き届けられた。……けれど、神が何を、いつ、誰を通して完成させるかは、まだ誰にもわかりませんよ」


 サラはそれだけ言うと、砂を噛むような足音を立てて去っていった。


 アブラハムはサラの不穏な空気に気づかぬふりをして、再びイシュマエルに顔を埋めた。 「イシュマエル……お前を、誰にも渡さない。お前は私のすべてだ」


 アブラハムの溺愛ぶりは、それからというもの、野営地の誰の目にも明らかだった。彼はどこへ行くにも幼いイシュマエルを連れ歩き、最高級の羊の乳を飲ませ、最も柔らかい毛皮に寝かせた。


 ハガルは、その様子を天幕の陰から見守りながら、確信していた。  この子が成長するたび、自分たちの地位は盤石になる。  アブラハムの愛という、最も熱く、最も頼りない盾を信じて。


 けれど、野営地に漂う火種の匂いは、消えるどころか、より深く、より濃く、黄金の天幕の隅々にまで染み付いていったのである。


お読みいただきありがとうございます。 第3話:荒ぶる野ロバの誕生、いかがでしたでしょうか。 赤子の力強い生命力と、アブラハムの狂おしいまでの愛情、そしてサラの内に秘めた静かな爆発を描写しました。


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