第8話

 歩くのをやめ、じっと耳を澄ませてやっと聞こえる程度の水の音。レッドボールに襲われ、二人揃って倒れ込んだことが功を奏したのだ。

 聞こえる方向は、進行方向から右のやや後ろといったところか。そう遠くないように思える。


「おーい……生きてるかー」


 まずは隣で倒れている佐藤さんの安否を確認するが、声を掛けても肩を揺すっても反応が無い。やはり死んだか。


「水……水だぞ……」

「んむ……? み、水……?」

「おお……生きてた」


 死んではいなかったらしい。だが体力的には本当に限界が近いんだろう。


「あっち……水、音……」

「……うん、水……ある」


 水だ。水さえあればこんなオークか原始人のような話し方をしなくても済むんだ。

 お互いに支え合いながら産まれたての小鹿のように立ち上がり、ゾンビのようにふらふらとした足取りで水の音へ向かって歩く。

 若干傾斜のある森の中に入った辺りから聞こえてくるようだが、もうこの期に及んでは暗いだの恐いだのと言っていられない。


「水……どこ、暗い」

「しっ。音……あっち」


 逸る心を抑えずに、遠慮なくガサガサバキバキと枯葉や枝を踏んで水へと向かう。

 木々の間から漏れる僅かな光だけを頼りに手探りで進み、手に冷たい水が触れたことで発見となった。

 暗くて全く見えないが、おそらく岩の間から湧くように出ているのだろう。水量は家庭用水道の蛇口を軽く捻った程度しかなさそうだ。到底川などと呼べるようなものではなかったが、水であることには変わりがない。

 軽く手を洗い、両手で流れる水を受け止めて一口。


「……っ、お、おおお」


 冷たい湧き水が、口、喉を潤しながら体に流れ込み、胃袋まで到達したことがはっきりとわかった。そこから体中に少しずつ染み渡っていくような感覚。足りない。まだまだ全然水分が足りない。


「水、どこ? 水」

「こっちだ。手を……ほら。わかるか?」

「み、水!」


 しかし一人で飲み続けるわけにもいかない。佐藤さんの手を取って水の所まで誘導する。


「んく、んく……ふぁぁぁ」


 あまり人様に聞かせるべきではない艶めかしい声がすぐ近くから聞こえてくる。

 暗くてどんな表情を浮かべているのかはわからないが、きっと恍惚とした顔になっていることだろう。

 気持ちはよくわかるので、純粋に良かったなと思うばかりだ。


「かなり冷たい水だし、ガブ飲みせずに交代しながらゆっくり飲もう」

「うん、うんっ……」


 その後も少しずつ口の中を湿らせるように、細胞一つ一つに水分を行き渡らせるようにゆっくりと飲み続ける。

 やがて水を受け止め続けた手が冷え切ってしまった頃、ようやく人心地つくことができた。

 そこで一旦危険な森から草原に出る。水場を離れるのは抵抗があったが、明るくなってから再び飲みに来ればいい。今日はもうこの辺りから動くつもりも無かった。


「水ってあんなに美味しかったんだねー」

「なー。人生で一番喉乾いたわー」


 適当に見晴らしの良い所で向かい合わせになって座り込む。お互いの背後を確認することで不意打ちを避けようという布陣だ。

 すっかり気が抜けてダラダラと話し込んでしまっているが、それで魔物が来るならもうそれでいいやという気分になっている。


「それでね鈴木くん。あんなに頑張ってやっと水が飲めたのは良いんだけど」

「……」


 佐藤さんは優しい声色で語りかけてくる。何かを悟ったような、あるいは達観したような落ち着きを感じた。


「おなかすいて死にそう……」

「だよな……」


 ずっと飲まず食わずで行動しているのだから、喫緊の『飲まず』を解消したなら次は『食わず』の方をどうにかしなくてはならない。

 レッドボールすら倒せないほど弱っていたのは脱水症状が原因だと思っていたが、いざ水を飲むとそれだけではないことがわかった。エネルギー不足も既に深刻な状態となっている。

 そして、水と違って食べ物は手に入る見込みが全く無い。このままでは餓死待ったなしである。


「といってもなあ。うーむ」

「ふっふっふ、お困りのようだね鈴木くん」

「…………は、はい。困ってます、佐藤先生」


 死にそうと言ったばかりの佐藤さんは、打って変わって不敵な笑みを浮かべている。これは食べ物に関してアテがあるのだろうか。

 とにかく急に偉そうになったので、一旦ここは下手に出て対応しなければ。


「ならば私が何とかして進ぜよう。まずはメニューを開くのだ」

「メニュー?」


 よくわからんまま言われた通りにメニューを開く。悲しいステータスが記載された半透明の画面が目の前に広がった。


「開いたかね? ならば、そのメニューの上の方に注目するのだっ」

「上の方? あれ、これ……タブですか」

「そう。それをタップするのだ」

「はあ」


 メニュー画面の上部には、ブラウザのタブのような何かがくっついている。そこに指を伸ばしてみると、ステータスから別の画面に切り替わった。これは……職業一覧か。

 現状では寂しく旅人だけが開放されていて、残りの欄はロックが掛かっている状態のようだ。いずれ職業が開放されていけば、このページにも見応えが出てくるのだろう。


「次は持ち物か。……ん? 持ち物?」

「そう、それだよ鈴木くん」


 職業の隣のタブをタップすると、持ち物一覧のページに切り替わった。こんな機能があったとは……。


「これはもしかして、インベントリというやつですか先生」

「その通り。さあ、中には何が入っているのだね?」

「……ジャガイモの種が五個。石ころが六個。枯草が三個と表示されています」


 いつの間にか佐藤さんにゴミを詰め込まれたのかと思ったが、このラインナップには思い当たる節がある。

 ジャガイモの種はジャガイモ男爵の、枯草はくさアニマルのドロップアイテムなのだろう。となると、俺のインベントリに石ころを詰め込んだのはレッドボールの野郎だ。


「よしよし、ちゃんと持っているようだね。何を隠そう、鍵となるのはそのジャガイモの種なのだよっ」

「はあ。ジャガイモの」


 ジャガイモの種なんて物があるのか。種イモから育てるものだと思っていたが……いや、そんな細かいことはどうでもいい。


「種ってことは、それを育てる……農業?」

「その通りだよ。ゲームにも農業があるからね。それをやるんだよ鈴木くん」

「な、なるほど……さすがです、先生」


 俺の心のこもった称賛を受けて佐藤先生は得意気に頷いている。原作プレイ勢の面目躍如といったところか。

 俺は職業を中心に調べていたので、農業というシステムがゲームに存在することを知らなかった。だが農家という職業が存在するのだから、当然農業もできるものだと思い付くべきだったかもしれない。


 ただこれをまともに植えて育てるのならば、この辺りがジャガイモの生育に適した土地だったとしても収穫まで数ヶ月かかるはずだ。その間に何回死ぬかわかったもんじゃない。

 しかしながら、RPGゲームのオマケ要素でそんなリアリティを追求することはないだろう。


「それで先生、エ、エ……このゲームの農業とはどうやるのでしょうか」

「エタファンね、エタファン3。んんっ、エタファン3の農業はとっても簡単。マイホームの畑に植えるだけなんだよ」

「マイホーム?」

「そう。イヴァイの王都の近くでマイホームが買えるんだよ。そこの畑に植えればすぐに育つのだっ」

「イヴァイ?」

「……うん」


 ここはたしかサウイン王国の領土で、イヴァイ王国はその次に訪れることになる国だ。そこに行くまでに何回死ぬかわかったもんじゃない。……というか、死んだらスタート地点に戻るのだから何回死んでも辿り着けない。


「でもマイホームとやらじゃなくても、適当にこの辺で植えてみるのもアリかもしれないですね」

「そ、そう! そうだよ鈴木くん。ゲームみたいに家の庭でしか育たないなんてことは無いはずだよ」

「ええ。種なんかいくらでも取れるんだし、やれる事は何でもやっていった方が良いですね。それで、ゲームだとどんな感じで育つんですか?」

「まだゲームだとマイホームを買ってないからちゃんとはわからないけど……確か、何回か戦闘したら一段階育って、それが全部で三回とかだったかな、うん」

「なるほど」


 RPGの農業だと妥当な線だろう。日数経過なら宿屋に連泊して育てることが可能になるし、戦闘回数をトリガーにするのが最も無難だ。

 仮に三回の戦闘で一段階育つのなら、合計九回で作物が育ち切るということになる。それならば食糧事情は大きく改善されることだろう。


「戦闘だけなら何とかなるか。あとは、肥料とか水やりとかはいいんですか?」

「そうだよ。種を植えたらあとは土の精霊に渡せばいい、から……水やりも……」

「土の精霊?」

「……」


 先生の口が急に重くなってしまった。得意気だった表情も神妙になり、何やら気まずそうになっている。土の精霊とやらに関して言いたくないことでもあるのだろうか。例えば、その精霊はマイホームにしかいないとか。


「先生?」

「……せ、先生はこの度、一身上の都合で退職されました」

「先生!?」

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