第二十七話 決める

 夜明け前、廊下はまだ冷えていた。


 英雄のために用意された建物は、朝でも静かだ。

 静かすぎて、音が均されている。

 足音も、呼吸も、壁に吸われるように消えていく。


 息を吸うだけで、

 ここが「待つ場所」だと分かる。


 リナは、部屋の中央に立っていた。


 剣は、布の上にある。

 昨日と同じ位置。

 手入れも、配置も、何一つ変わっていない。


 変わっていないことが、

 この場所の正しさを証明している。


 ここでは、剣を取ることが前提だ。

 取らない時間は、準備の一部にすぎない。


 ――剣を取れば、席に戻れる。


 英雄としての役割は、すぐに与えられる。

 迷わなくていい。

 考えなくていい。


 それが、正しい。

 正しいはずだった。


 リナは、自分の手を見る。


 剣を握る形を、まだ覚えている手。

 反射で動く指。

 刃の重さを、思い出せる手。


 だが昨日、この手は別のことをしていた。


 空いた手で、

 誰かの呼吸の速さを測り、

 声が途切れない距離に立っていた。


 血を止め、

 布を渡し、

 「大丈夫だ」と言われる前の間を、埋めていた。


 英雄の席では必要とされない行為。

 記録にも残らない行為。


 それでも、

 確かに必要だった。


 そのとき、

 誰かの背中が近くにあった。


 声は少なかった。

 だが、動線は常にこちらを避けていた。


 ――邪魔にならない距離。


 思い出した瞬間、

 胸の奥がわずかに熱を持つ。


 理由は考えない。

 考えれば、剣を取る理由が揺らぐ。


 リナは、剣に近づかない。


 代わりに、一歩下がった。


 距離を取る。

 それだけのことが、ここでは意味を持つ。


 扉に向かう。


 誰も止めない。

 止める理由がない。


 英雄は逃げない。

 制度は、そう理解している。


 だから、歩いて出ることもまた、

 制度の外側では問題にならない。


 外に出ると、空が白み始めていた。


 馬車は、用意されていない。

 呼べば来る。


 だが、呼ばない。


 馬車を呼ぶと、

 考える時間が消える気がした。


 剣を取らなかった理由を、

 まだ言葉にできないからだ。


 英雄をやめたいわけじゃない。

 剣が嫌いになったわけでもない。


 ただ、

 剣を取る前に、

 先に浮かんだものがあった。


 薬の匂い。

 湯の音。

 朝の準備をする、規則的な動き。


 そして、

 こちらを見ないまま

 「次」を示す声。


 リナは、自分の足で歩き出す。


 診療所へ向かって。


 戻る、のではない。

 戻らされる、でもない。


 ――会いたい、でもない。


 ただ、

 そこに行くと

 呼吸が乱れない気がした。


 歩く距離が、考える時間になる。


 剣を取らなかった理由に、

 まだ名前はつかない。


 だが、

 「ここに行く理由」を

 否定するほど、冷たくはなれなかった。


 診療所の屋根が見えたとき、

 胸の奥が、わずかに痛む。


 期待ではない。

 不安でもない。


 そこに行って、

 「何も変わらなかったらどうしよう」

 という痛みだった。


 扉は、開いていた。


 中に入ると、湯の匂いがした。

 布の乾いた匂い。

 器具が触れ合う、控えめな音。


 朝の準備をする音。


 レオンが、そこにいる。


 顔を上げない。

 驚きもしない。


 ただ、

 動線を一つだけ空ける。


 それで十分だった。


 ――ここだ。


 リナは、そう思う。


 言葉ではなく、

 身体が先に理解する。


 リナは何も言わない。


 言えば、

 ここに来た理由を

 説明しなければならなくなる。


 説明は、まだできない。


 器具台の脇に立つ。

 昨日と同じ位置。

 医師の動線から、半歩外れた場所。


 だが、

 立ち方が違う。


 ここに立つ理由を、

 自分で選んだあとだからだ。


「……戻ったな」


 レオンの声。


 確認でも、評価でもない。

 事実だった。


「はい」


 それだけ答える。


 剣の話は出ない。

 馬車の話も出ない。


 聞かれないことが、

 少しだけ、胸に触れる。


「次、包帯」


 手が差し出される。


 業務だ。

 いつも通りだ。


 リナは包帯を取る。


 指は、もう震えていない。


 患者が来る。


 村の人間。

 いつもの怪我。


 誰かが、ふとリナを見る。


「……戻ったんだな」


 小さな声。


 責めでも、歓迎でもない。


 リナは答えない。


 答える必要がない。


 手を動かす。


 それが、今の役割だ。


 昼前、子どもが来る。


「走らなかった?」


「うん」


 それだけで十分だった。


 昼過ぎ、老人が来る。


「楽だ」


「無理はしていませんか」


「していない」


 いつもの会話。


 英雄の噂は出ない。

 ここでは、仕事が先に来る。


 夕方、最後の患者が帰る。


 リナは布を洗い、干す。

 動作は正確だ。


 空が赤くなる。


 レオンが灯りを落とす。


「帰るぞ」


 外に出る。


 冷えた空気。

 だが、足取りは重くない。


 しばらく歩いてから、レオンが言う。


「剣を取らなかったな」


 責めない声。

 確認だけ。


「……はい」


「理由は」


 一拍。


 リナは、少し考えてから答える。


「ここにいると、

 考えなくて済む気がしたからです」


 半分だけ、真実。


 レオンはすぐに答えない。


 歩き続ける。


「役割は」


 言葉が落ちる。


「自分で決めていい」


 昨日と同じ言葉。


 だが、今は違う。


 これは、選択肢ではない。

 許可でもない。


 ――確認だ。


「……はい」


 リナは息を吸う。


 胸の奥が、じんとする。


 レオンは、少しだけ言葉を足す。


「戻ってくると思っていた」


 自信でも、期待でもない。

 ただ、そう見ていたという声。


 それが、

 胸の奥に、静かに落ちる。


 剣を取るより、

 ずっと強く。


 リナは、笑いそうになる。

 泣きそうにもなる。


 だから、何も言わない。


 代わりに、

 一歩だけ前に出る。


 診療所へ向かう道を、

 確かに踏みしめる。


 剣はない。


 だが――


 彼のそばに立つ理由は、

 もう、自分の中にあった。

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