第十六話 無駄を肯定する日
朝は、何事もなく始まった。
鐘は鳴らない。合図もない。
村は勝手に目を覚まし、勝手に動き出す。
リナは宿の部屋で目を開け、天井を見た。木目の隙間に、昨日と同じ染みがある。位置も形も変わらない。戦場では、同じ景色は続かない。続いたら、それは死体の上だ。
ここでは、続く。
続くことが前提になっている。
身体を起こす。痛みはない。関節は軽い。呼吸も整っている。
英雄として、問題はない。
それでも、リナはしばらく動かなかった。
今日は、何もない日だ。
訓練もない。
診てもらう理由もない。
誰かを守る必要もない。
それが分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。
剣は、昨日と同じ場所にあった。布に包まれ、結び目もそのまま。抜く必要はない。背負う必要もない。持たないことが、ここでは普通になりつつある。
普通になるのが、怖い。
それでも、リナは立ち上がった。
水で顔を洗い、簡単な食事をとる。パンを噛む回数が、昨日より増えていることに気づく。噛めば噛むほど、時間が過ぎる。時間が過ぎても、何も起きない。
その事実を、身体が受け入れ始めている。
外へ出る。
村は昨日より静かだった。畑に出る者の数が少ない。空が曇っている。雨が来る前の匂いだ。土が重くなる日。剣を振るには向かない。
剣を振らない理由が、天気になる。
それが、少し可笑しかった。
リナは広場を通り過ぎ、川の方へ向かった。洗い場に人はいない。石が濡れている。昨夜、誰かが使ったのだろう。生活の痕跡が残る場所だ。
手を浸す。冷たい。長くは浸さない。身体は正確だ。必要以上に我慢をしない。
川から離れ、医務室のある方角を見る。
灯りはついていない。
誰も診ていない時間だ。
行く理由は、ない。
それでも、足が向いた。
昨日は、理由を作った。
今日は、理由が作れない。
それなのに、行く。
それが違う。
医務室の扉の前に立つと、昨日よりも呼吸が静かだった。扉を叩く音は、昨日と同じ大きさだ。変えない。変えようとしない。
「どうぞ」
中から返る声も、同じだ。
リナは扉を開けた。
医務室は、いつも通りだった。机、椅子、棚。秩序。匂い。
そして、レオン。
今日は書き物をしていない。棚の前に立ち、瓶を整理している。並び替えているわけではない。減ったものを確認している。生活の管理だ。
レオンはリナを見る。
「どうした」
昨日と同じ問い。
リナは答えに詰まった。
確認もない。
痛みもない。
異常もない。
答えがない。
沈黙が落ちる。
昨日なら、ここで理由を作った。
今日は、作らなかった。
「……何もない」
言ってしまった。
自分でも、少し驚く。
戦場では、何もないという報告は役に立たない。ここでは、役に立たなくても許される。
レオンは眉を動かさない。
「そうか」
それだけ。
追い返さない。
深掘りしない。
評価もしない。
「座るか」
命令ではない。提案でもない。
ただ、場所があるという事実の提示。
リナは椅子に座った。
座っていい、というだけで、胸が落ち着く。診療が始まらないことに、違和感はなかった。医務室は診るための場所だが、待つ場所でもある。
レオンは棚に戻り、瓶を一本取って確認し、元に戻した。布を畳み直す。針の数を数える。小さな動作が続く。
会話はない。
それでも、沈黙は重くならない。
戦場での沈黙は、次の爆発を待つ音だ。
ここでの沈黙は、何も起きないことを保証する。
リナはそれを、身体で理解し始めていた。
「今日は、誰も来ないな」
レオンが言う。
情報でも、感想でもない。状況の共有だ。
「……そうだな」
リナはそう返した。
英雄としての言葉ではない。
誰かの判断を促す言葉でもない。
ただの返事。
その軽さが、心地よい。
レオンは机に座り、何も書かない。
書く必要がないからだ。
リナは思う。
この人は、仕事がない日を恐れていない。
役に立たない時間を、否定しない。
戦場では、仕事がない時間は不安だ。
仕事がない=次に備えろ、という合図になる。
ここでは、仕事がない=それでいい、になる。
「雨が来る」
レオンが窓を見る。
「来そうだ」
リナも同じ方向を見る。
窓は高い。空は少ししか見えない。それでも、光の変化は分かる。雲の重さ。色の鈍さ。戦場で培った感覚が、ここでも役に立つ。
役に立つのに、使われない。
その状態が、続く。
レオンは言った。
「今日は、無理をする日じゃない」
止める言葉ではない。
評価でもない。
ただ、事実の共有。
リナは頷いた。
無理をしない理由が、誰かの命令ではなく、空気と天気と、この場所の性質から生まれる。それが、奇妙に正しかった。
沈黙が続く。
リナは自分の手を見る。剣を握らない手。血がついていない手。傷もない。爪は短い。戦場仕様だが、今は使われていない。
「……何もしていないな」
思わず口に出た。
英雄としては、禁句だ。
何もしていない=価値がない、と思われがちだ。
レオンは、すぐには答えなかった。
一拍。
「何もしていない日がある」
「それは、悪いことじゃない」
説教ではない。
慰めでもない。
医師としての経験から出た、淡々とした判断だ。
リナの胸の奥で、何かがほどける。
戦わないことを、肯定された。
逃げたとも、休んだとも言われない。
ただ、存在として認められた。
それが、安心の正体だった。
「ここでは、戦う役割はない」
レオンは続ける。
「それでいい」
命令ではない。
許可でもない。
当然のこととして言われた言葉。
リナは、息を吐いた。
長く、深く。
それだけで、身体が軽くなる。
剣を置いた日より、軽い。
リナは初めて、医務室の中を“居場所”として感じた。
守る必要のない場所。
勝つ必要のない場所。
評価されない場所。
それでも、拒まれない場所。
レオンは医師として、ここにいる。
英雄を戻すためではない。
戦わせるためでもない。
ただ、必要なときに、必要なことをするために。
それが、凄腕であることと矛盾しない。
リナは思った。
この人は、私に何も求めない。
それなのに、私はここに来てしまう。
理由は、もうない。
それでも来る。
それを、今日は否定しなかった。
医務室の外で、雨の音がし始めた。
屋根を叩く音は弱い。土に染みる音だ。
「今日は、ここまでだ」
レオンが言う。
診療の終わりではない。
一日の区切りだ。
リナは立ち上がった。
「……また来る」
確認ではない。
宣言でもない。
ただ、自然に出た言葉。
レオンは頷いた。
「必要なら」
その言葉は、昨日と同じだ。
意味も同じだ。
それでも、今日は違う。
必要という言葉が、理由を指していない。
場所を指している。
外へ出る。
雨が強くなる前に、宿へ戻る。
剣は持たない。
走らない。
英雄としては、無駄な動きだ。
でも、今日はそれを無駄だと感じなかった。
無駄を肯定する日。
その日が、確かにここにあった。
リナは雨の中を歩きながら、初めて思った。
ここに来ることは、
戦場に戻らない選択なのかもしれない、と。
それでも、怖くなかった。
それが、何よりも不思議だった。
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