第五話 別の用件

 村の広場は、静けさの中に光を差していた。

 医師としての一日を終えたレオンは、診療所の裏手にある小さな井戸に立ち寄っていた。乾いた手に水をかけると、肌に染み込むような冷たさがあった。


 そこに、馬の蹄が土を踏む音が近づいた。

 ゆっくりと振り返ったレオンの視線の先に、一人の女がいた。


 風を避けるように深くフードをかぶっていたが、その歩き方と気配に、レオンはすぐに察した。


「久しいな」


 そう口にしたのは、女のほうだった。


「あなたがこの村にいると聞いたとき、信じられませんでした」


「……あの場にいるべき人間ではなかった」


「違います。あなたがいなくなって、王都は――いや、軍は、取り繕うことで精一杯でした。英雄医を失った意味を、誰も口にできなかった」


 レオンは目を伏せ、水面を一度見つめたまま、手を拭った。


「……何をしに来た?」


 女は沈黙し、風の音だけが返事をする。

 やがて、その静けさを破るように口を開いた。


「私は、かつて英雄を『兵器』と呼びました。あなたの治療を指して『稼働率を保つ技術』だと説明した。そうしなければ、私たちは多くを守れなかったから」


 レオンはそれでも答えず、女の声だけが続いた。


「でも……その『兵器』だった彼が、ある日、剣を置いたんです。傷だらけの身体で、それでも笑って。

 彼は言いました――『もう命令じゃなく、生きていたい』と。

 私は、そのとき何も言えなかった。

 私は、命を捨てさせる側の人間だったから」


 レオンはようやく、まっすぐに彼女を見た。

 その目に、責める色はなかった。


「……その彼は、今も生きているのか?」


「ええ、幸せそうに。教える側として、次の世代に剣を伝えています。あなたが治したその腕で」


「そうか」


 それはレオンにとって、報われる瞬間だった。


 けれど、女は言葉を続けた。


「あなたも、英雄です。私は今でもそう思っています。

 兵器ではなく、人を救う英雄。

 ……なぜ、王都を去ったのですか?」


 レオンの手がわずかに止まる。

 しかしその問いには、答えなかった。


 ただ一言だけ、静かに残した。


「人の命は、命令では動かせない。それだけだ」


 女はその言葉を胸に刻むように、目を閉じた。


「……わかりました。私はまだ、理解できる自信はありません。けれど、変わりたいと思います」


 彼女は頭を下げた。

 レオンは黙って、それを受け入れた。


 それが、制度の中で命を計算してきた者の、最初の一歩だった。

 女は、村の方角を一瞥した。


 子どもたちの声が、風に乗ってかすかに届く。

 走る音。笑い声。何でもない日常の音だ。


「……静かですね」


 感想のようでいて、評価ではなかった。


「戦場では、こうはいきません」


 レオンは答えない。


「静けさは、誰かが前で音を引き受けているから成り立つ」


 女は淡々と言葉を重ねる。


「恐怖も、混乱も、死も。

 それらを一身に集める存在がいるから、後ろは静かでいられる」


「それが、英雄です」


 断言だった。


「あなたは剣を振らない英雄」

「彼は剣を振る英雄」

「役目が違うだけで、立っている場所は同じ」


 女の視線が、レオンを外さない。


「あなたは治す。

 彼は斬る。

 どちらも、人の命を肩代わりする行為です」


「重い役目を引き受けられる者がいるなら、

 引き受けさせるのが国という仕組みです」


 それは説明ではなかった。

 説得でもなかった。

 世界の前提を語る声だった。


「あなたが王都を離れたことで、

 英雄は壊れやすくなりました」


 責める調子ではない。


「治療の英雄が前線を離れれば、

 剣の英雄はより多くを削られる」


「それでも私は、あなたを否定しません」


 女はそう言った。


「なぜなら、あなたも英雄だからです」


 その言葉には、皮肉も揺れもない。


「英雄は、選べない」

「使命は、逃げ場を与えない」

「それを理解した者だけが、英雄になる」


 女は一歩、診療所の外へ踏み出した。


「この村が静かであることは、

 あなたが役目を果たしている証です」


「王都が荒れるなら、

 それは英雄が足りないというだけの話」


 女は振り返らない。


「……いずれ、また必要になります」


「剣の英雄も」

「治療の英雄も」


 その声には、予告のような冷たさがあった。


 レオンは、最後まで答えなかった。


 答えないことが、拒絶ではないと知っているからだ。


 女は歩き去る。


 その背中には、迷いがなかった。


 使命を疑わない者の背中だった。


 診療所に残ったレオンは、しばらくその方向を見ていた。


 子どもの声が、また聞こえる。


 英雄が引き受けなかった音だ。


 レオンはそれを、否定もしなければ、肯定もしなかった。


 ただ、灯りを落とす。


 英雄は、今日もどこかで削られている。


 それでも、削られるべきだと信じる者がいる。


 その事実だけが、静かにここに残った。

 沈黙が落ちた。


 診療所の中に、薬草の匂いだけが残る。


 女はレオンから視線を外し、壁に掛けられた簡素な外套を見た。

 それは王都のものではない。

 称号も、階級も、権限もない場所の衣服だ。


「……あなたは、逃げたのではない」


 女はそう言った。


「王都を離れたのは、裏切りでも放棄でもない。

 英雄として、別の場所を選んだだけ」


 それは評価だった。

 理解ではない。

 まして共感でもない。


「だからこそ、私はここに来た」


 女は一歩、前に出る。


「あなたは治療の英雄だ。

 剣を振る者と同じく、命を肩代わりする側の人間」


「英雄は、選ばれた時点で、自由を失う。

 それを引き受ける覚悟があるから、英雄と呼ばれる」


 断定だった。


「酷使されるべきだと思っています。

 それが使命だからです」


 女は初めて、レオンを正面から見た。


「私は、その使命を管理する側の人間です」


 一拍、間を置く。


「名を、言っていませんでしたね」


 女は背筋を伸ばした。


「イリスです」


 それは挨拶ではなかった。

 自己紹介でもない。


 立場の宣言だった。


「覚えておいてください、レオン。

 あなたも、剣を置いた英雄も、同じ側にいる」


「国は、英雄を必要とする。

 必要とする限り、使う」


「それが残酷でも、正しい」


 イリスはそれ以上、何も言わなかった。


 踵を返し、扉へ向かう。


「……いずれまた会います」


 それは願いではない。

 予告だった。


 扉が閉まる。


 レオンは、最後まで呼び止めなかった。


 イリスという名が、診療所に残る。


 思想ごと。

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