第三話 無口な医師
診療所の扉が叩かれた。
強くはない。
だが、迷いのない音だった。
レオンはすぐに分かった。
患者の叩き方ではない。
答えを求めに来る者の音だ。
扉を開けると、女が立っていた。
旅装ではない。
村の女とも違う。
装飾は抑えられているが、布の質と仕立てが違う。
役割を持つ者の身なりだった。
「診察を」
女はそれだけ言った。
声に揺れがない。
痛みを訴える声でも、助けを乞う声でもない。
「どうぞ」
レオンが脇に避けると、女は中に入った。
中を一度だけ見回す。
道具ではなく、空間そのものを測る視線だった。
診療台には座らない。
立ったまま、言葉を続ける。
「私は病気ではありません」
「そうでしょうね」
レオンは否定しなかった。
「ただ、確認したいことがあります」
「確認とは」
女は一瞬だけ言葉を選んだ。
「英雄は、治ったのですか」
空気が変わる。
村でその言葉を使う者はいない。
ここでは剣も称号も価値にならない。
「治療は終わっています」
「完全に?」
女の問いは冷静だった。
だが、その奥には切迫がある。
「医師として言えるのは、それだけです」
女は目を細めた。
「……やはり、あなたは変わりませんね」
「王都にいた頃から」
その一言で、過去が繋がる。
レオンは表情を変えない。
「あなたは、英雄を治すべきではなかった」
女はそう言った。
非難ではない。
断定だった。
「治ることで、彼は再び剣を持てる」
「剣を持てる者は、戦線に戻るべきです」
「それが、国を守る最短の道だから」
女の声には迷いがなかった。
「英雄とは、国民の恐怖を肩代わりする存在です」
「それが過酷だというなら、最初から英雄など名乗るべきではない」
レオンは黙って聞いている。
「彼が剣を振るだけで、何百人が生き延びる」
「彼が一歩前に出るだけで、戦は終わる」
「それを知ってなお、彼を村に留めるのですか」
女の視線が、鋭くレオンを捉える。
「あなたは、命を救う手を持っている」
「ならば、その手は使われるべきです」
「国のために」
レオンは、ゆっくりと女を見返した。
「あなたは」
静かな声だった。
「彼を、人として見ていない」
女は否定しない。
「人であることと、使命は両立します」
「使命を果たせる者が、果たさない選択をする方が罪です」
「それが国の論理です」
レオンは視線を落とした。
診療台に置かれた、何も書かれていない帳面を見る。
「彼は」
レオンは言った。
「三年、壊れ続けました」
女の眉が、わずかに動く。
「壊れたのは、身体だけではない」
「役割に押し潰され、選択を奪われ」
「それでも英雄であれと、要求され続けた」
「私は、それを治しました」
女は一拍置いた。
「……それでも」
言葉を続ける。
「それでも彼は、英雄です」
「英雄である限り、求められる」
「それが、世界です」
「世界は」
レオンは言った。
「変えられなくても」
「私は、患者を切り捨てません」
女は沈黙した。
その沈黙は敗北ではない。
理解でもない。
「……あなたは」
女は、最後に言った。
「なぜ、王都を離れたのですか」
一線を越えかけた問いだった。
レオンは答えない。
女は、それ以上踏み込まなかった。
「いずれ」
そう言って、踵を返す。
「国は、またあなたを必要とします」
扉が閉まる。
診療所には、いつもの静けさが戻る。
レオンは帳面を閉じた。
何も書かない。
書けば、誰かが正しさを真似る。
正しさは、人を壊す。
外では、子どもたちの声がする。
剣ではない。
走る音だ。
レオンは、それを聞きながら灯りを落とした。
英雄は、もう役割ではない。
少なくとも、この場所では。
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