第10話 断絶の調停

 家庭裁判所の会議室は、冬の空気のように乾いていた。長机を挟んで向かい合う四人――俺と弁護士、元妻とその弁護士。壁の時計の音だけがやけに大きく響く。


 調停委員が静かな声で切り出した。


「本日は、親権と養育費、慰謝料について最終確認を行います。まず、面会交流についてですが……娘さんの意思確認は、すでに—」


 元妻の弁護士が書類を差し出す。そこには、短い一文があった。


〈別に、会わなくてもいい〉


 喉が、音を忘れた。


 頭では覚悟していたはずだった。

 だが、黒いインクの線は、凶器のように胸の奥へ突き刺さる。


「……そう、ですか」


 声が勝手に掠れた。


 調停委員は淡々と続ける。


「お嬢さんは、今はお母さんと暮らすことを強く望んでいます。年齢的にも、意思は尊重されるべきと判断されました」


「はい。異議は……ありません」


 異議を唱える資格なんて、今の俺には無い。

 そう思った瞬間、自分の心がひどく軽くなった気がした。

 たぶん、それは安心でも納得でもなく――諦めだった。


 そのとき、元妻が僅かに視線を上げた。


「……それと、養育費についてだけど」


 やけに柔らかく、しかし妙に余裕のある声だった。

 指先には新しいブランドのリング。腕時計も見覚えのない高級品。


 悟る。

 ――こいつ、今、金あるな。


(高橋か。間男と、まだ続いてるんだろうな)


 胸の奥で何かがひどく冷えた。


「慰謝料については、こちらの提示額を—」


 俺の弁護士が言いかけた、その瞬間。


 バン、と扉が乱暴に開く音がした。


「おい、ちょっと待てよ!」


 会議室の空気が一瞬にして凍る。

 入ってきたのは、あいつ――高橋だった。


 ジャケットの襟を立て、下品な笑みを浮かべながら俺を見下ろす。


「調停って聞いたから来てやったんだよ。なあ、まだ金の話してんの? みっともねぇな」


 調停委員が慌てて制止の声を上げる。


「関係者以外の入室は困ります!」


 だが高橋は無視した。机に近寄り、俺の顔を覗き込む。


「ていうかさ……娘、本当にお前の子なのかよ?」


 空気が、裂けた。


 元妻の肩が跳ね、調停委員が青ざめる。

 俺の弁護士が、静かに書類を置いた。


 そして――低い声で言った。


「……あなた。今、何を口にしたのか、分かっておられますか?」


 その声音は、冷たい刃物のようだった。


「親子関係を疑う発言は、重大な法的意味を持ちます。ここは当事者の感情をぶつける場所ではありません。これ以上、そのような発言を続けるのであれば――」


 高橋の笑みが固まった。


「……ち、違う、冗談だろ。冗談……」


 弁護士は一歩踏み込み、静かに睨みつける。


「冗談であろうと、決して口にしてはならない言葉です」


 その迫力に、高橋は視線を逸らし、舌打ちした。


「……もういい。帰るぞ、彩花」


 だが元妻は俯いたまま、何も言わなかった。


 扉が閉まる音だけが残る。


 会議室に沈黙が落ちた。


 俺は、長く息を吐く。


(ああ――もう、いい)


 怒りも、悲しみも、全部どこかへ消えていった。


 残ったのはただ一つ。


 ――早く終わらせたい。


「……慰謝料は、提示額で結構です。これで、すべて終わりにしてください」


 自分で言いながら、喉の奥が焼けるようだった。


 調停委員が小さく頷く。


「……それでは、本日をもって、離婚成立とします」


 ペン先の音が、最後の鎖を断ち切った。


 俺は席を立ち、会議室を出た。

 廊下の窓から差し込む光はやけに眩しいのに、体はひどく重い。


 そのまま家へ戻り、靴を脱ぐより先にPCの前へ座る。


 深呼吸一つ。


 配信開始ボタンを押した。


 画面が開き、チャットが一気に流れ始める。


〈みことちゃん!?〉

〈急配信だ!〉

〈どうしたの?〉


 俺は笑った。声が少し震えていた。


「……今日さ、離婚、正式に決まったんだ」


 一瞬、コメントが止まり――次の瞬間、爆発した。


〈え!?〉

〈本当に?〉

〈大丈夫!?〉


 そして。


〈おつらいでしょう〉

〈よく頑張った〉

〈無理しないで〉


 温かい言葉が、画面いっぱいに溢れる。


 胸の奥がじわりと熱くなる。


「……ありがとう。マジで……ここがなかったら、折れてたかもしれない」


〈ここにいるよ〉

〈一人じゃないから〉

〈今日は雑談しよう〉


 視聴者の文字が、柔らかく肩に触れてくるようだった。


 俺はゆっくりと笑い、マイクに向かって言った。


「じゃあ――今日は、少しだけ、泣き言を聞いてくれ」


 深夜の部屋に、静かな声と、優しいコメントの光が広がっていく。


 その夜、俺は初めて――

 話して、泣いて、救われた。


 ◇◇◇


 結局、昨晩の配信は三時間にも及んだ。


 雑談のつもりで始めたはずが、気づけば時計の針は深夜を何度も跨いでいた。

 画面の向こうにいる見知らぬ誰かが、俺の言葉に耳を傾け、共感し、励まし、笑い、泣いてくれた。


〈ここにいるよ〉

〈無理しないでね〉

〈それでも生きててえらい〉


 あの光のような文字たちは、今も頭の奥で柔らかく瞬き続けている。


 配信を切ったあと、スパチャの履歴を確認して、思わず息を呑んだ。


 合計額は、十万円を裕に超えていた。


「……冗談、だろ」


 ぽつりと呟き、椅子に背中を預ける。

 俺を慰めるためだけに、こんなにも多くの人が金を投げてくれたのだ。


 喜び、感謝、申し訳なさ――それらがいっぺんに胸へ押し寄せてくる。


(……こんな俺に、そこまでしてくれる人がいるなんて)


 それだけで、胸の奥がじんわり熱くなった。


 シャワーを浴びてベッドへ潜り込んだものの、なかなか眠れなかった。

 涙は出なかったが、心の奥で何かが静かに溶けていくのを感じていた。


 そして翌朝――

 目覚ましの前に目を覚ました俺は、コップの水を飲み、スマホの通知を確認する。


 未読メールが一件。


 差出人は──ニシカワ。


 初配信の日、最初にコメントをくれた視聴者であり、今ではサムネイルや待機画面を作ってくれている、まだ若いイラストレーターだ。


 胸の奥が、少しだけ緊張で固くなる。


 メールを開く。


 ――


「昨日の配信のことで……その、私に何かできることは無いかなって思って、メールしました。


 無理しないでください。

 無理して笑わなくてもいいんです。


 もし、作業を手伝うことでも、話を聞くことでも。何でも言ってください。……あなたの幸せを、心から願っています。」


 ――


 指先が止まった。


 文字は簡潔で、飾り気がなく、けれどどこまでも優しかった。


 昨夜、あれだけ慰められたというのに――さらに心配をかけてしまっている。


(……ダメだな。俺のほうが、ちゃんとしなきゃ)


 深く息を吸い、キーボードに指を置く。


「ありがとう。大丈夫ですよ。もう前を向けています。心配してくれて、本当に感謝しています」


 それだけを書いて、送信ボタンを押した。


 過剰な弱音は吐かない。

 過度に頼らない。


 ――俺は、俺の足で立たなきゃいけない。


 そう思った瞬間、不思議と胸の奥が軽くなった。


 カーテンを開ける。冬の朝の日差しが部屋の奥まで差し込み、防音タワマンの床を白く照らしている。


「……よし」


 ジムバッグを肩にかけ、外へ出た。


 トレーニングルームの空気は汗と鉄の匂いがして、筋肉を追い込むたび、体より先に心が温かくなる。


 トレーナーにフォームを矯正され、鏡に映る自分を見つめながら、息を吐く。


(昨日までの俺じゃない)


 そのあと、ボイトレ教室へ向かい、腹式呼吸と発声をひたすら繰り返す。講師の手拍子に合わせ、声を前へ飛ばす。


「もっと喉を開いて。はい、いいですよ」


 汗が首筋を伝い落ちる。だが不思議と、苦しくはなかった。


 むしろ――心は晴れていた。


 夕方、防音室に戻り、モニター前の椅子に腰を下ろす。


 マイク、ミキサー、モニタリング環境を再調整し、配信画面を整えながら、小さく笑った。


(支えてくれる人がいる。

 だから俺は、歩き続けよう)


 深夜配信のスケジュールを確認し、スクリプトのメモを開く。


 ――そして夜になったら、また声を届けよう。


 今度は、昨日より少しだけ強くなった声で。


 そんな予感とともに俺は静かに目を閉じ、深く息を吸った。

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