渋谷ヴァンパイア戦記

@SSeeSS

第1話 「境界線の向こう側」

人間と怪物の境界線は、思っているよりもずっと薄い。


大学の哲学の講義で、教授がそんなことを言っていた。「人間の定義とは何か」「理性と本能の境界はどこにあるのか」——そんな抽象的な議論を、俺たち学生は単位のために聞き流していた。


でも今なら分かる。その境界を越えるのに必要なのは、壮大な哲学的洞察でも、長い時間をかけた変化でもない。


ただ一滴の血と、数分間の暴力だけだった。


俺の名前は松本蓮。21歳の大学生で、人文学部に通っている。昨日まで、俺は確実に「人間」だった。今日からは——分からない。


これは、俺が人間性を失っていく記録だ。


十月の夜、渋谷は相変わらず眠らない街だった。


午後11時を回っても、スクランブル交差点には人波が途切れることなく流れている。ネオンサインが夜空を染め、どこかのクラブから漏れる重低音が地面を震わせている。


俺は駅前のコンビニでバイトを終え、いつものように終電に向かって歩いていた。今日は特に疲れていた。レジで酔っ払いに絡まれ、店長には理不尽に怒鳴られ、おまけに就職活動のエントリーシートはまだ白紙のままだ。


「最悪だな……」


小さく呟いて、ポケットからスマホを取り出す。親友の慶からメッセージが来ていた。


『明日の授業、ノート貸してくれる?』


いつもの軽いノリだ。こういう他愛のないやり取りが、俺にとっては貴重な日常だった。家に帰れば、中学生の妹・美月が「お帰り、兄ちゃん」と迎えてくれるだろう。母さんは夜食を用意してくれているかもしれない。


そんな当たり前の日常が、永遠に続くと思っていた。


終電まであと10分。いつもの道を行けば間に合うが、今日は何となく違う道を通ってみたくなった。道玄坂の裏手を抜ける細い路地——普段は通らない、少し薄暗い道だ。


その選択が、俺の人生を完全に変えることになった。


路地に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


表通りの喧騒が嘘のように遠ざかり、代わりに重苦しい静寂が俺を包む。街灯の光も届かない暗がりに、何かが潜んでいる気配を感じた。


足を止めようとした時、それは起きた。


ドシャッ。


何かが壁に叩きつけられる音。続いて、風を切り裂くような唸り声。


角の向こうから、人間のものではない声が聞こえてくる。


「クソッ、逃がすかよ!」


「やめてくれ、俺はただ生きたかっただけだ!」


恐る恐る覗いてみると——そこには信じられない光景が広がっていた。


空中を、二体の化物が飛び交っていた。


一体は黒いコートを着た男で、背中から昆虫の脚のような黒い突起物が伸びている。もう一体は若い女性の姿をしているが、その背中には蝙蝠のような翼が生えていた。


両者とも、青白い肌と血のように赤い瞳を持ち、明らかに人間ではなかった。


「お前が私の縄張りで狩りをした時点で、結末は決まっていた」


コートの男が冷たく言い放つ。その手から、黒い刃のような何かが伸び、女性の胸部を貫いた。


「あ、ああ……」


女性の身体から、鮮血が噴き出す。そして次の瞬間、信じられないことが起きた。


女性の身体が光の粒子となって霧散していく。まるで蛍のように、無数の光が夜空に舞い上がり、そして消えた。


地面には、赤黒く輝く結晶のようなものだけが残された。


「質の悪いルーンだな」


男がその結晶を拾い上げる。


俺は息をすることさえ忘れていた。これは現実なのか?映画の撮影か?それとも悪い夢?


しかし、鼻を刺す血の匂いと、肌に感じる異様な緊張感が、これが紛れもない現実であることを告げていた。


逃げなければ。今すぐに。


一歩後ずさりしようとした時、足元の空き缶を踏んでしまった。


カシャン。


乾いた音が、静寂を破る。


男の動きが止まった。ゆっくりと、機械仕掛けの人形のように首がこちらを向く。


暗闇の中で、二つの赤い光が俺を捉えた。


「なんだ、見物人か」


男の口元が歪み、残酷な笑みを形作る。


「運が悪かったな、人間」


次の瞬間、世界が爆発した。


死と覚醒

男が消えたかと思った瞬間、俺の身体は宙を舞っていた。


何が起きたのか理解する前に、背中がコンクリートの壁に激突する。全身の骨が砕ける音が聞こえ、口から血が溢れた。


地面に落下する。痛みが全身を駆け巡る。


「楽にしてやるよ」


男が見下ろしながら、手を振り上げる。その爪が、俺の胸部に向かって降り下ろされた。


ズブリ。


心臓を貫かれる感覚。冷たい異物が胸の奥まで侵入してくる。


死ぬ。


ここで死ぬのか。


美月の顔が浮かんだ。今朝、「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた妹。まだ誕生日プレゼントも買ってあげていないのに。


慶の顔も浮かんだ。明日、ノートを貸す約束をしていたのに。


父さん、母さん。まだ何も恩返しできていないのに。


意識が遠のいていく。暗闇が視界を覆い尽くす。


俺の人生は、ここで終わった。


——はずだった。


暗闇の底で、何かが弾けた。


ドクン。


心臓が跳ねた。いや、心臓ではない。右の太ももの奥で、強烈な脈動が生じた。


熱い。マグマのような熱が血管を駆け巡る。全身の細胞が悲鳴を上げ、死滅し、そして即座に再生していく。


何かが書き換えられていく。DNAが、細胞が、存在そのものが。


人間としての設計図が破り捨てられ、より凶悪で強靭な何かの設計図が上書きされていく。


「あ、ガ、ァ……」


喉から漏れたのは、獣の唸り声だった。


目を見開く。世界が変わっていた。


暗闇のはずの路地が、昼間のように明るく見える。男の心臓の鼓動まで聞こえる。血の匂い、恐怖の匂いが、鮮烈に鼻を突く。


「あ?なんだテメェ……生きてんのか?」


男が驚愕の声を上げた。


俺の胸には確かに風穴が開いている。心臓を貫かれた人間が生きているはずがない。


だが、俺は生きていた。いや、正確には一度死んで、別の何かに生まれ変わったのだ。


立ち上がる。砕けたはずの骨が音を立てて繋がっていく。潰れた内臓が元の形を取り戻していく。


胸の傷が塞がり、破れたシャツの間から、青白く変色した肌が覗く。


「血の覚醒だと?まさか、あいつの血を浴びて……」


男が後ずさりする。


そうか。さっきの戦闘で飛び散った女の血が、俺の傷口に入り込んだのか。それが引き金となって、この変化が起きたのか。


俺は自分の手を見た。爪は伸びていない。翼も生えていない。


ただ、身体の奥底から湧き上がる破壊衝動だけがあった。


目の前の男を殺さなければならない。そうしなければ、俺が殺される。


論理ではない。純粋な生存本能が、俺を支配していた。


「ざけんな!なりたての新米が調子に乗るんじゃねえ!」


男が激昂し、再び爪を振り下ろす。


速い。さっきまでの俺なら、目視することさえできなかっただろう。


だが、今の俺には見える。軌道が、筋肉の収縮が、殺意の方向が。


避けようとした。しかし、意識と肉体の同期が取れていない。


死ぬ。また死ぬ。


そう直感した瞬間、俺の視界の端で、黒いものが動いた。


影だ。


街灯の光によって地面に伸びていた俺の影が、まるで意思を持った生き物のように立ち上がった。


それは瞬時に硬質化し、盾となって俺の前に立ちはだかる。


ガギィン!


金属同士がぶつかり合うような音が響いた。男の爪が、俺の影に弾かれている。


「な……影の操作!?テメェ、特殊能力持ちかよ!」


男の声が裏返る。


俺自身も驚いていた。これは俺がやったのか?この黒い、不定形の怪物が、俺の一部なのか?


疑問を抱く暇もなく、影は次の行動に移った。防御から攻撃へ。


盾の形状をしていた影が、無数の鋭利な針へと変化する。


「消えろ」


俺の口が勝手に動いた。普段の俺なら絶対に言わない、冷酷な響き。


影の針が一斉に射出される。男は回避しようとしたが、狭い路地では逃げ場がない。


数本の針が男の肩や足を貫く。


「グアァァッ!クソッ、クソガキがぁぁ!」


男が咆哮し、捨て身の特攻を仕掛けてくる。


もう防御は間に合わない。男の爪が、俺の左胸——心臓のある場所を正確に捉えた。


ズブリ。


心臓を抉り取られる感覚。


「ハッ!心臓を潰せば終わりだ、バァカ!」


男が勝利を確信して叫ぶ。


だが。


俺の意識は途切れなかった。痛みはある。とてつもない痛みだ。だが、力が抜けない。生命の灯火が消えない。


なぜなら、俺の心臓はそこにはなかったからだ。


右の太ももで脈打つ真の心臓が、さらに激しく血液を送り出し、俺の脳を覚醒させ続ける。


「な……んで……?」


男の顔が凍りつく。


その隙だらけの胴体に、俺の影が音もなく忍び寄っていた。


足元から伸びた影が、鋭い槍となって男の胸を貫く。下から上へ。心臓を一突きに。


「ガ、ハ……バカな……」


男の動きが止まる。赤い瞳から光が消えていく。


男の身体が崩れ落ちるのと同時に、光の粒子となって霧散していく。


後に残ったのは、やはりあの赤黒い結晶——『ルーン』だけだった。


静寂が戻ってくる。雨音だけが響く路地裏で、俺は立ち尽くしていた。


足元に転がるルーンを見つめる。それは、さっきまで生きていた男の命の結晶だ。


気持ち悪い。悍ましい。理性はそう叫んでいる。


だが、俺の身体は違った。


食べたい。


強烈な渇望が、理性を塗り潰していく。喉が渇く。腹が減る。細胞の一つ一つが、その赤い石を求めて悲鳴を上げている。


俺は震える手で、ルーンを拾い上げた。温かい。まるで生きているように脈打っている。


口に運ぶ。鉄の味。血の臭い。


吐き気がする。だが、それ以上に甘美な香りが脳を麻痺させる。


俺は、それを齧った。


ガリッ、という硬質な音と共に、口の中に液体が溢れ出す。濃厚な味。生命そのものの味。


飲み込んだ瞬間、頭の中に映像がフラッシュバックした。


知らない景色。知らない記憶。男の視点だ。


怯える人間を追い詰める快感。肉を引き裂く感触。『もっと寄越せ、もっと喰わせろ』という底なしの欲望と、暴力への陶酔。


そして、死の瞬間の恐怖。


「う、ぅぷ……!」


俺はその場に膝をつき、嗚咽した。


胃の中身を吐き出そうとしたが、何も出ない。ルーンはすでに俺の肉体の一部となり、エネルギーとして吸収されてしまっていた。


他人の人生を、命を、喰らったのだ。


俺は、人を殺した。そして食べた。


もう、後戻りはできない。


その時、東の空が白み始めたことに気づいた。


身体が重くなる。先ほどまでの万能感が嘘のように消え失せ、代わりに泥のような疲労感が襲ってくる。


皮膚の下で何かが蠢き、骨格がきしむ。


変身の強制解除だ。


ヴァンパイアの時間は終わり、無力な人間の時間が始まる。


どうやって家に帰り着いたのか、記憶が曖昧だ。


始発前の静まり返った住宅街を、影に隠れるようにして歩いた。


自宅の鍵を開け、音を立てないように玄関に入る。時刻は午前5時半。家族はまだ寝ているはずだ。


洗面所に駆け込み、血まみれの服を脱ぐ。鏡に映った自分の顔を見て、息を呑んだ。


顔色は悪いが、いつもの松本蓮の顔だ。赤い瞳も、牙もない。


胸には傷跡一つなかった。太ももにも、何の痕跡もない。


昨夜の出来事は、すべて悪夢だったのではないか。


そう思いたかった。


だが、脱ぎ捨てたシャツにべっとりと付着した血糊が、それが現実であることを残酷に突きつけていた。


シャワーを浴び、血を洗い流す。冷たい水でも、身体の火照りは消えなかった。


右の太ももの奥で、新しい心臓が異質なリズムで脈打っているのを感じる。


「……お兄ちゃん?」


脱衣所のドア越しに、眠そうな声が聞こえた。


美月だ。


普段なら、「おはよう」と返すだけの何気ない日常の一コマ。


だが、今の俺にはそれが劇薬だった。


ドクン。


美月の声を聞いた瞬間、喉が焼けるように渇いた。


扉の向こうにいる妹の、細い首筋。皮膚の下を流れる温かい血液。その脈動が、手に取るように想像できてしまう。


美味しそう。


脳裏に浮かんだその言葉に、俺は戦慄した。


何を考えているんだ。美月だぞ。大切な妹だぞ。


それを、食物として認識したのか?俺は。


「お兄ちゃん、帰ってたの?シャワー?」


ドアノブが回る。ガチャリ、と音がする。


「入ってくるな!!」


俺は叫んでいた。自分でも驚くほど、切迫した声だった。


「え……?」


「今、着替えてるから!あっち行ってろ!」


沈黙。やがて、不満そうな、しかし少し心配そうな美月の声が聞こえた。


「……何よ、大声出して。変なの」


スリッパの音が遠ざかっていく。


俺は洗面台の縁を掴み、ガタガタと震え出した。鏡の中の俺が、泣きそうな顔でこちらを見ている。


俺は人間だ。松本蓮だ。


そう言い聞かせる。


だが、右足の心臓が嘲笑うように脈打つ。


お前はもう、こちらの住人だ。


夜が来れば、またあの姿になる。人を殺し、その心臓を喰らわなければ生きていけない化物に。


そしていつか、この渇きに耐えきれず、大切な家族に牙を剥く日が来るのかもしれない。


俺は濡れた髪のまま、自分の部屋に逃げ込んだ。カーテンを閉め切り、布団を被って丸くなる。


朝の光が怖かった。そして、それ以上に、やがて来る夜が怖かった。


俺の、人間としての日常は終わった。


終わってしまったのだ。


渋谷の街が目覚め始める音を遠くに聞きながら、俺はただ、震えることしかできなかった。


人間と怪物の境界線。


俺は、その向こう側に堕ちてしまった。


そして、もう二度と戻ることはできないのだ。

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