第14話 来春のための寄せ植えのチューリップ


別れた翌朝。

ほとんど眠れず、精神的にもかなりまいっていた。


彼にとって、唯一の救いだったのが、

再婚以降、二十二年来、同居人化の関係になっている妻が

2週間ほど出かけており不在ということだった。


今の状況をみすかされることもだが、

逢えば、罵り合う関係が長年続いていてその対応もしなくていい。

それが救いでもあった。

 

目を閉じればひろみの泣き顔が浮かび、

胸の奥が締め上げられるように痛んだ。

胃は固く縮まり、

何を見ても食べたい気持ちにならない。

水を飲むだけで精一杯だった。

 

立ち上がろうとしても、

足取りがふらついた。

体が自分のものではないように、

真っすぐ歩くことすら難しかった。

 

それでも、

部屋にじっとしていることが

逆に苦しくて仕方なかった。

 

きょうは土曜日。

いつもの週末の土曜は、ひろみのアパートに行くのが常だった。

もう、行く場所もないのに、朝気づけば、

外に出ていた。

 

どうしようもない胸の痛みから逃げるように、

車に乗り込み、

エンジンをかけていた。

 

***

 

あてもなく走っていたはずが、

気づくと彼女の住む街へ向かう道だった。

 

4年間、

週末ごとに通った道。

LINE電話で毎日話した四年間は、1460時間以上だった。

 

体が覚えていたのだろう。

意識しなくても、

ハンドルは自然とその方向へ向かっていた。

 

晴れ渡る空はやけに明るく、

秋のその光が胸に逆に刺さった。

 

愛した人がいなくなる日に限って、

どうしてこんなにも

世界は美しく見えるのだろう。

 

岩本医院のならぶ通りに差し掛かった瞬間、

胸がきゅっと締めつけられた。

 

「ああ……ここは、もう……。」

 

慌ててハンドルを切ったが、

涙だけは止まらなかった。

 

景色が滲み、

呼吸が乱れ、

ただ必死に前を見つめていた。

 

「まだ……ぜんぜん……整理できてない。」

 

声に出すと、

その震えに驚くほどだった。

 

***

 

ドラックストアーに入り、

手当たり次第に「ストレスを和らげる」と

書かれた薬を手に取った。

薬を選ぶ手まで震えていた。

 

帰り道、

ふとホームセンターのほうへ車を回した。

まるで、

昔の自分に向かって

「もう少しだけ頑張れよ」と

言い聞かせるように。

 

そして、

気づけばひろみのアパートの近くへ向かっていた。

交差点で曲がってしまった。

 

行くつもりはなかったのに。

ただ、体が覚えていたのだ。


今日は、夜の女子会の食べ物を作ると張り切っていた。

もともとは、彼も手伝う予定だったが、

突然の別れがそれを閉ざしていた、

 

2階の窓にいつもの「……洗濯物、あるかな。」

 

自分でもバカなことを言っていると思った。

そんなこと、何の意味もないのに。

 

アパートの前をゆっくり通り過ぎたが、

洗濯物はなかった。

 

そこに、“私の知らない今日のひろみ”がいると思うだけで、

胸がまた痛んだ。

 

遠くの周囲を一周しただけなのに、

涙のあと、少しだけ呼吸が軽くなった。

 

泣くという行為は、

壊れた心をほんの少しだけ

形に戻す力があるのかもしれない。

 

「……もう行かないからね。だいじょぶ」と

ひろみに伝えるように

 

声に出すと、

その言葉はまだ震えていたけれど、

どこかで前に進もうとする響きを持っていた。

 

***

 

家に戻ると、

どうしてもやりたいことが一つだけあった。

 

チューリップの寄せ植え。

 

本当は――

ひろみに贈った以前の寄せ植えがうまくいかなかった気がして、

“リベンジ”のつもりで、来春の球根を用意していたのだ。

 

球根を並べながら、

ひろみの声や笑顔が浮かび、

何度も手が止まった。

 

でも、

植え終わるころには

心の奥に、

ほんのわずかだが“区切り”の気配がした。

 

植物は、

迷わない。

季節が来れば、かならず芽を出す。

 

人間は迷う。

だから苦しい。

 

完成した鉢を前にして、

私は静かに息をひとつ吐いた。

 

「ありがとう……ひろみ。」

 

涙が土に落ちた。

 

それでも、

ほんの少しだけ世界の色が戻ってきた気がした。

 

これが、

再生の最初の瞬間だった。

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