第四章 顕と幽
コトシロヌシの「死」は、単なる敗北や消滅ではない。
出雲大社の神学では、オオクニヌシは「幽事(かくりごと)」を司る神とされている。国譲りによって、見える世界(顕界)の政治は天津神の子孫が担い、見えない世界(幽界)の事柄はオオクニヌシが司ることになった。
これは、敗北ではなく分業である。
『出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)』という祝詞がある。出雲国造が代替わりするたびに、朝廷に参上して奏上する言葉だ。
この神賀詞によれば、コトシロヌシは「皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神」となったとされる。敵対していたはずの国津神が、天皇の守護神に転化しているのだ。
学術的には、これは「各地の首長たちが朝廷へと服属していった歴史的過程を、神話的に典型化したもの」と解釈されている。在地の神々がオオクニヌシに統合され、さらに朝廷の守護神へと組み込まれていく。神話は、この政治的プロセスを語っている。
◆
しかし、政治的解釈だけでは、あの奇妙な所作の意味は説明しきれない。
なぜ、単に「国を譲った」「消えた」と書かずに、わざわざ「天の逆手」「船を覆す」「青柴垣」「水底に隠れる」という具体的な所作を記したのか。
ここには、政治的意味と宗教的意味の重層があると考えるべきだろう。
政治的には、コトシロヌシの即座の同意は、抵抗なき服属を意味する。出雲勢は力で敗れたのではなく、政治的判断として国を譲った。武力衝突を回避する「知恵」があった。
宗教的には、コトシロヌシの「死」は、顕界から幽界への移行を意味する。彼は消滅したのではなく、見えない世界に移った。そこで、新たな役割を担う守護神となった。
この二つの意味は、矛盾しない。むしろ、重なり合っている。
◆
人類学者のヴィクター・ターナーは、通過儀礼における「リミナリティ(境界性)」の概念を提唱した。人が一つの社会的状態から別の状態へ移行するとき、その中間に「境界的」な段階がある。この段階では、通常のルールが停止され、逆転や反転がおこなわれる。
葬送儀礼において、世界各地で「逆転」の慣習が見られる。ヨーロッパでは、死者の家の時計を止める、鏡を壁に向けて裏返す、水の容器を空にする、といった習俗があった。通常の秩序を反転させることで、死という「境界」を儀礼的に示すのだ。
コトシロヌシの「逆手」「覆す」という所作は、この文脈で理解できる。それは、境界的状態、リミナルな段階を示す普遍的な象徴なのだ。
タケミカヅチの「逆さの剣」も、同様に解釈できる。神聖な交渉の場、つまり「境界」を設定するための象徴的行為である。
二つの「逆」は、対になっている。
タケミカヅチは剣を逆さに立て、刃先に座り、交渉の場を設定し、天津神の神威を示す。
コトシロヌシは天の逆手を打ち、船を覆し、異界へ移行し、国津神の「死」を遂行する。
両者の所作は、国譲りという「境界的事態」を、それぞれの立場から象徴的に表現しているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます