第5話:善意の改革②「奴隷制の即日廃止」

蒸気の図面事件から二週間。


私はその間、できるだけ何も見ないようにして生きた。


図書室に入り浸り、廊下では壁紙になり、食堂では角の席を確保し、会話は最短距離で終わらせる。


平穏の三原則——布団・静けさ・知らないふり。


私は知っているふりが得意ではないが、知らないふりなら得意だ。


陰キャ女子高生として鍛えたスキルは、異世界でも役に立つ。


……役に立たなくていいんだけど。


役に立つと、呼ばれるから。


呼ばれると、面倒だから。


なのに。


世界は、私の知らないふりを許さない。


学園の掲示板に貼られた一枚の公告。


『王族主導の特別討論会——社会制度改革について』

主催:第二王子殿下

協力:有志学生(代表:某令嬢)


某令嬢のところ、わざとらしく伏せてあるのが腹立つ。


伏せたって分かる。


横恋慕令嬢だ。


王道イベントの火種を、わざわざ看板にして燃やしに行くタイプ。


嫌いではない。


ただ、距離を取りたい。


火は遠くから眺めるものだ。


近づくと熱い。


熱いと眠れない。


眠れないのは致命傷だ。


(神様、これ出ないといけないやつ?)


「出なくてもいいんじゃない?」


(じゃあ出ない)


「でもさ、出ないと“ソレイユ侯爵家が王族に非協力”って噂が立つかも」


(……)


「面倒だねぇ」


(黙って)


私は、渋々、討論会の会場へ向かった。


“出ない面倒”と“出る面倒”なら、だいたい“出る面倒”の方が短期で終わる。


短期で終わる可能性がある。


可能性しかないけど。


人生はいつも可能性に賭けて負ける。


会場は講堂。


上級生と教師と、貴族の子どもたちがずらりと並ぶ。


空気が熱い。


熱気は嫌いだ。


熱気は集団心理を加速させる。


集団心理は、だいたい現実より先に走る。


先に走ったものは、止めるのが面倒だ。


舞台の中央に第二王子。


その隣に、横恋慕令嬢。


光の当たり方まで計算された位置取り。


そして、彼女の声は今日も甘い。


甘い声は、正義を包んで飲み込みやすくする。


毒にも薬にも使える。


「皆さま。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。私たちは未来を担う者として、国をより良くする責任がございます」


責任。


嫌な単語が出た。


責任は重い。


重いものは持ちたくない。


私は膝の上で指先を絡め、息を浅くする。


存在感を薄くする儀式。


横恋慕令嬢が続ける。


「改革は恐ろしいものではありません。正しいことを、正しい形で、早く行う。それが人を救います」


“早く”。


その言葉が、私の背中を冷やした。


早さは気持ちいい。


早さは拍手を呼ぶ。


でも早さは、設計を置き去りにする。


設計がない改革は、だいたい崩れる。


崩れた瓦礫は誰が片付ける?


……片付けるのは、責任を取れる人、ではない。


たいてい、責任を取らされる人だ。


そして責任を取らされる人は、現場にいる。


現場の面倒は現場で吸う。


私は現場にいたくないのに、ここにいる。


最悪だ。


討論会のテーマは二つある、と彼女は言った。


一つは、すでに匂わせていた「技術の共有」。


もう一つが、本日の目玉だと。


彼女は少しだけ声を強めた。


そして言った。


「——奴隷制の、即日廃止です」


講堂がざわめいた。


誰かが息を呑む音。


誰かが拍手をしかけて止める音。


教師の表情が固くなる。


上級貴族の子どもが眉をひそめる。


……そして、横恋慕令嬢の取り巻きが、先に拍手を始めた。


拍手は伝染する。


伝染は止めにくい。


止めにくいものは面倒だ。


私は心の中で頭を抱えた。


(即日……?)


「うん、即日って言ったね」


(やめてほしい)


「君の平穏、死にそう」


(死ぬ)


第二王子は、少し誇らしげに頷いた。


彼は“正しいことをする自分”が好きだ。


自分を好きになるのは悪くない。


ただ、好きになる前に設計図を読んでほしい。


設計図なしの正義は、だいたい人を踏む。


横恋慕令嬢は、まっすぐな瞳で語った。


「奴隷は、人間です。人を所有物のように扱う制度が、今も残っていること自体が間違いです。明日では遅い。今日、終わらせなければなりません」


言葉だけなら、正しい。


“人間”という言葉には、反対しづらい。


反対すると悪者になる。


悪者は面倒だ。


私は悪者になりたくない。


だから言葉に対しては黙るしかない。


でも、制度は言葉だけで動かない。


制度は生活だ。


生活は、すぐには変えられない。


変えられないものを変えると、壊れる。


壊れたら、面倒が増える。


私の平穏が死ぬ。


討論会は、そのまま「賛成」の空気に流れた。


もちろん反対意見も出た。


貴族の子どもたちが、ぎこちなく言う。


「経済への影響が」


「治安が」


「代替の雇用が」


でも彼女は、笑顔で切り返した。


「命の尊厳より大事な経済はありません」


「治安は改革の痛みです」


「雇用は、技術の共有で増えます」


——綺麗に繋がる。


繋がるけど、細部がない。


細部がない正義は、たいてい現場で破裂する。


私はその場で気づいた。


この人、“設計”をしていない。


していないのではなく、想像していない。


奴隷が解放されたその日、彼らはどこで寝るのか。


誰が食べ物を渡すのか。


職がなければ、どう生きるのか。


犯罪者が出たら、誰が責任を取るのか。


——責任。


また責任だ。


責任が増える未来が見える。


私は責任が嫌いだ。


嫌いだから、胃が縮む。


討論会は結論に向かって走った。


第二王子が宣言する。


「まずは学園周辺から試行し、王都での奴隷取引を停止する。法整備は急ぎ進める」


横恋慕令嬢が微笑む。


拍手が起こる。


拍手は伝染する。


私の掌は動かなかった。


動かすと同意したことになる。


同意すると、後で巻き込まれる。


巻き込まれると面倒。


私は面倒が嫌いだ。


でも私は、拍手が止む前に立ち上がってしまった。


誰にも気づかれないように、端から退出する。


熱気から逃げる。


逃げるのは得意だ。


私は逃げ道の設計者だから。


講堂を出た廊下で、私は深く息を吐いた。


冷たい空気が肺に入る。


少しだけ生き返る。


……が、そこで声がした。


「イレイン」


悪役令嬢枠。


深紅の髪、銀の瞳。


彼女はいつも通り無表情だが、目だけが少しだけ鋭い。


鋭いというより、焦りに近い。


焦りは珍しい。


珍しいものは、だいたい面倒の前触れだ。


「……今の話、どう思う」


質問が直球だ。


面倒だ。


直球は避けにくい。


私は曖昧な返事を探す。


曖昧は盾だ。


盾がないと刺される。


「……制度の変更は、準備が必要かと」


私は薄く言った。


薄い言葉。


責任の薄い言葉。


でも彼女は、私の薄さを見透かしたように言った。


「あなた、もっと具体的に見えているでしょう」


やめて。


見透かさないで。


見透かされると、意味が生まれる。


意味が生まれると、面倒が増える。


私はただ寝たいだけなのに。


私は一瞬、言うべきか迷った。


言ったら当事者になる。


黙ったら、彼女が単独で動くかもしれない。


単独で動くと、衝突が起きる。


衝突が起きたら、面倒が増える。


——結局、面倒の選択だ。


私は軽い方を選ぶ。


いつもそう。


「……学園周辺で試行、って言いましたよね」


彼女が頷く。


私は続ける。


「この周辺には、取引所がある。今日止めたら、明日から“雇い主”がいない人が出ます。住む場所も、金も、保証もない。そういう人が、街に溢れます」


彼女の瞳が少しだけ揺れた。


「……治安が」


「荒れます。取り締まりが増えます。増えた取り締まりは、弱いところを叩く。弱いところが潰れると、さらに荒れます」


私は淡々と言った。


正義ではない。


現実だ。


現実は冷たい。


冷たい現実は、面倒を減らすために必要だ。


私は面倒が嫌いだから言っている。


善意ではない。


善意だと思われたくもない。


悪役令嬢枠は、少しだけ目を伏せた。


「殿下は……分かっていない」


「分かってない、というより。分かろうとしていないかもしれません」


言葉が強くなるのを、自分で感じてしまった。


嫌だ。


私は感情を出したくない。


感情は繋がりを作る。


繋がりは面倒だ。


でも、ここで抑えすぎると、彼女はもっと孤立する。


孤立した人は、だいたい爆発する。


爆発は面倒だ。


「……ありがとう」


彼女は短く言って、去った。


去ってくれて助かった。


会話は短いほどいい。


短い会話は、平穏の味方だ。


——その日の夕方。


私の予感は、早速現実になった。


学園近隣の街道。


私は本当は行きたくなかった。


でも式典係の上級生が血相を変えて言ったのだ。


「学園の門前で揉めています! 解放された奴隷が——いえ、解放された元奴隷の方々が、寝泊まりする場所がなく……」


ほら来た。


最悪の速度で来た。


即日という言葉は、こういう速度を呼ぶ。


速度は気持ちいい。


でも速度は、現場を焼く。


私は、門前の騒ぎを遠目に見た瞬間、心が無言で死んだ。


荷物を抱えた人々がいる。


疲れ切った顔。


子どももいる。


そして周囲には、困った顔の衛兵と、怒鳴る商人と、野次馬。


野次馬はいつも元気だ。


元気があるなら帰って寝ろ、と言いたい。


言わないけど。


商人が怒鳴る。


「勝手に居座るな! 店の前だぞ!」


衛兵が焦る。


「待て、暴れるな!」


元奴隷たちは、言葉がうまく出ない人もいる。


出ても、小さく、震えている。


「……どこへ、行けば……」


誰も答えられない。


答えられないから、怒鳴る。


怒鳴ると余計に怖い。


怖いと人は固まる。


固まると流れが詰まる。


詰まるとさらに怒鳴る。


面倒の循環。


最悪の循環。


(これ、長期的に面倒が増えるやつ)


「うん、無限に増えるやつ」


(やめて……)


「君、ここで何もしないと、学園が巻き込まれるよ」


(それも面倒)


「ほら、結局動く」


(……)


私は、前に出た。


嫌だ。


でもここで誰も前に出ないと、誰かが殴る。


殴ったら終わる。


終わると、面倒が爆発する。


爆発よりは、私が一歩出る方が軽い。


私は軽い面倒を選ぶ。


「式典係の者です」


札を見せる。


札は正義だ。


正義は場を止める。


少なくとも一瞬。


その一瞬が大事だ。


「学園の門前は、通行の妨げになります。いったん、こちらの空き倉へ移動しましょう。雨も防げます」


私は、近くにある空き倉庫を指した。


学園が備品を置くために借りている場所。


鍵は式典係が管理している。


つまり、私が開けられる。


開けたくないけど。


開けないと面倒。


面倒が嫌いだから開ける。


最悪の合理。


衛兵が「助かります」と言う。


商人が「早くしろ」と言う。


元奴隷たちは、恐る恐る動く。


動線を作る。


人を分ける。


子どもは内側へ。


怒鳴る商人は外側へ。


衛兵を中間に置く。


距離を作る。


距離は衝突を減らす。


衝突が減れば面倒も減る。


私は距離が好きだ。


倉庫に人が収まった頃には、日が落ちていた。


私は鍵を閉めて、ため息を飲み込んだ。


鍵を閉める手が少し震えている。


疲れた。


今日は布団まで遠い。


倉庫の前で、教師が駆けつけてきた。


「イレイン・ソレイユ……君が対応したのか」


やめて。


名前を呼ばないで。


名指しは、責任の始まりだ。


責任は嫌だ。


「式典係の札がありましたので。動線の整理を」


私は“整理”と言った。


助けた、ではない。


救った、でもない。


整理。


片付け。


私は片付け係でいい。


英雄よりマシだ。


英雄は殺されるか担がれる。


どっちも面倒だ。


教師は眉をひそめたまま言った。


「王都からの指示が曖昧だ。保護の予算も、受け入れ先も決まっていない。君の言う通り——準備が足りていない」


私は心の中で頷いた。


ほらね。


足りていない。


足りていないから現場が燃える。


燃えると、私の平穏が死ぬ。


その夜、私は布団に潜り込んだ。


潜り込んだのに、眠れない。


倉庫の中の人々の顔が浮かぶ。


怒鳴る商人の声が浮かぶ。


そして何より、横恋慕令嬢の言葉が浮かぶ。


「明日では遅い」


遅いのは、準備だ。


準備の遅さを、現場に押し付けるな。


押し付けた結果を、私に見せるな。


私は平穏に生きたい。


平穏のために、私は結論を出した。


——これ、長期的に面倒が増える。


私が平穏に暮らせない。


倫理じゃない。


正しさでもない。


ただの損得。


私の生活の損得。


私は自分の生活が一番大事だ。


そうじゃないと、布団が守れない。


布団の中で、私は小さく呟いた。


「……方向、間違ってる」


神様が、眠そうに返した。


「やっと気づいた?」


(気づきたくなかった)


「でもさ、君が気づいたってことは——」


(うん)


「次、動くね」


(……最小限で)


「もちろん。君、最小限のプロだもん」


(褒めないで)


私は目を閉じた。


眠りたい。


でも、眠りの前に、頭の中で一つの決意だけが固まっていく。


横恋慕令嬢を勝たせたら、面倒が無限に増える。


それだけは避ける。


避けるために、私は——何もしないために、動く。


また。

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