第2話 愛人と代議士と妻、そして犬
憲児と連絡先を交換したのは大学生の時だった。
「芝先生のところの由紀子ちゃん?」
新宿駅で実家に帰る電車を待っていると、後ろから声をかけられた。振り向くと見覚えのある背の高い男が笑って立っている。
「こんにちは」
「あ、誰だかわかってないでしょ。俺、萬田幼稚園の息子。昨日から親父が入院しててさ、これから群馬に帰るところ」
「園長先生が?」萬田知事になった後も、私は昔のように彼の父を『園長先生』と呼んでいた。
「そうそう。半年前に病気が分かって、もう長くないらしい。だから急だけど来週結婚することにした。……おめでとうって言おうか、お大事にって言おうか迷ってる?」
私は頷いた。
「祝って」彼はにこやかに言った。
「おめでとうございます」
「ありがとう、由紀子ちゃん。そうだ、連絡先教えて。親父が死んだら葬儀の事を連絡したいから」
知事は翌日に亡くなり、彼の結婚は間に合わなかった。
メールが唐突に来たのは1ヶ月後だ。
『親父の葬式に来てくれてありがとう。卒業後は群馬に帰って来るんだって?』
『その予定です』
『お母さん喜んでたよ。俺も地元に戻る事にしたから、よろしく。今度妻の里香を紹介するから』
『はい、よろしくお願いします』
地元に帰ってすぐに、何もかも失敗だと気がついた。母にはもう恋人がいて私は必要なかった。母の恋人は父の友人で、海のそばに住んでいる人だった。
私はといえば、歯科衛生士の専門学校を今更やめる気にはなれなかった。
半年の気まずい母との同居生活、家の売却や物の整理のための時間。
家の売却の目処がついてすぐに、憲児から連絡が来た。萬田不動産に売却を頼んだのだから、情報は筒抜けだ。
『由紀子ちゃん、住むところどうする?』
『まだ決めてません』
『歯科医院の上のフロアに賃貸が何部屋かあるんだ。今日仕事の後、良ければ内見に来なよ。保証人は考えないでいい。賃料が高すぎたら言って』
『今日ですか?』
『仕事終わったら連絡して』有無を言わせない雰囲気があった。
それから7年が経った。彼は国会議員になり、私はまだここにいて彼の歯を磨いている。
「砂糖の入っているおやつは避けましょうって、芝先生いつも言ってただろ」
グミを食べる私を、憲児が恨めしそうに横から見ている。憲児は絶対におやつは食べない。
「患者さんには内緒だけどお父さんも、グミは好きでした。憲児さん、あーん」一粒つまんで口の近くへ差し出すと、予想通り憲児は嫌そうな顔をした。自分の口に放り込み、スーツを着た彼を玄関で見送る。
「しばらく会えない。猫崎から連絡するかも」彼の熱心な目が、私を見下ろす。
「おやすみなさい」
「由紀子さん、ちょっとお願いしたいことがあるのだけれど」
翌日午後6時。医院を閉める準備をしていると、憲児の妻の里香がやってきて、声をかけられた。腕には相変わらず白い犬を抱いている。
「芝さん、残りの片付けはいいから」歯科医師から言われた。オーナー夫人の頼みとあれば、すぐに行けという事だろう。
これまでも会食や法事で何回か話したが、私と彼女は親しいとは言い難い。
「お待たせしました」
「うちに来てもらってもいいですか」
「ハイ」
エレベーターで六階まで行く間、犬は嫌な横目でこちらを見た。
犬に負けず劣らず、私も嫌な気分だ。
いったい何の用事なのか皆目見当もつかない。愛人をやめろ、というなら喜んでやめる。殴られるだろうか。
里香は背が高い。ノースリーブから見える鍛えられた腕や長く引き締まった脚をみるに、力は私よりもずっと強い。憲児より年上で、同じ商社の先輩だと聞いた。憲児は妻の話はしないが、きっと愛している。この7年、細心の注意を払い、彼は私の存在が妻にバレないようにしていた。
居間に通される。真っ白なソファセットが真ん中に鎮座していた。
「どうぞ」里香は向かいのソファに座ると思いきや、犬を膝に載せたまま肩が触れるほど、私のすぐ横に座った。
「話というのは、歯磨きの事です」犬が歯をむき出して唸った。嫌な予感しかしない。
「……歯磨きですか?」
「ええ。ポッポの歯磨きが、急に出来なくなってしまって」
犬の歯磨き。美しい妻は膝に載せた犬をなで、私も胸を撫で下ろす。
「先月、ポッポは散歩中に不用意に草を噛んで口の中をミツバチに刺されました」
「痛そう。大丈夫でしたか?」
「御心配ありがとう。それはそれは腫れて、もうこんなでした」里香は自分の頬のあたりで手を丸くしてみせた。
「獣医の先生に診ていただいて治ったのだけれど、それから歯磨きをしようとすると、唸るようになってしまって。何度か主人や猫崎くんと協力して磨こうとしたの。でもこの子、男性が嫌い。特に主人が大嫌いで、もうどうにもならなくて。由紀子さん、手助けしてもらえないかしら」
30分後、やっとの事で犬の歯磨きは終わった。
「手強かったわね。ありがとう由紀子さん」里香は先ほどまで犬をくるんでいたバスタオルを、几帳面な手つきで畳みながら言った。二人とも緊張で汗だくになった。
当の犬は歯を磨かれた後はソファの隅に丸まって、恨みがましい目つきでこちらを見ている。
今まで一度も動物を飼ったことは無い。趣味もなく、仕事をしてたまに映画を観るだけ。
地元の友達も全員結婚してしまった。
友達の結婚式に出るたびに、素敵だなと思い、周りからは男女交際を勧められ、曖昧な返事を返す。
友達の子供を見ても可愛いと思う。今日もほんの少しポッポを可愛いと感じた。
でも、それが自分の人生と地続きで、自分にも何かを可愛がりながら、愛し愛されるような日が来るようには思えなかった。
父と母を思う。
私たちは仲良い家族で、愛し合っていたはずだ。でも父は死に、母も消え、家族で過ごした家さえ無くなった。
このビルの二階の歯科医院と三階の自宅をひたすらに往復するだけの人生。
母は今頃海辺の家で、父の友人だった男と笑いながら暮らしている。
家に帰りスマホをみると、猫崎から連絡が来ている。
『次の土曜日の午後に迎えに行きます』
『行きません』
『先生から頼まれました』
『無理です』
『先約があるなら断ってください』
ため息が出る。
『先生のためならできますよね?』
『わかりました』
『先日渡した服を着て、途中まで車で来てください。15時に指定したコインパーキングで待ち合わせます。そこから先はお連れします』
愛人という呼称は、営利目的のひびきがある。家賃が毎月わずかに値引きされている以外、特に恩恵はない。
家賃の値引きだって、時間外歯磨きを散々やらされているのを考えたらマイナスだ。
そもそも彼の事が好きではなかった。どちらかといえば、見た目も話し方も里香のほうが好きだ。
今日初めて間近で里香の顔を見た。年齢も上州のからっ風も彼女の美しさを損なわず、どこか少女の面影を残す長い睫毛が頬に影を作っていた。
アグレッシブな犬をなんとかしようとして、優しく言い聞かせているのも、なんとかうまく磨けてこぼれた笑顔も素敵だった。
あんな美しい人が仕事をやめ、群馬に引っ越し、夫をよろしくと他人に頭を下げて生きている。それが政治家の妻なのだろう。
土曜日の午後、私は言われた通りのスーツを着て、バッグには変装用のメガネを入れ、車を出した。
埼玉の指定されたコインパーキングに停める。
髪も指定された通りおろして伊達メガネをかけた。バッグを肩に掛け車を降りる。ドアをロックする音が聞こえるよりも前に、声をかけられる。
「芝さん」
「はい」止めてあった猫崎の運転する黒い高級車に乗り換えた。
「後部座席にお願いします」言われるがままに後部座席に乗る。
車は滑らかに車道に出て、走り始めた。
「宿舎に行くのは初めてですか」
「はい」
「中は普通のマンションみたいな感じですよ。カムフラージュのために、僕も泊まりますが、部屋に籠もりきりでいます。お気になさらず」
気にならないわけが無い。
猫崎は同じ商店街育ちの1歳下だ。14歳年上の憲児の事は、子供時代の記憶に無いが、猫崎の事はお互いよく知っている。
同じ登校班で同じ学習塾。猫崎こそ、幼なじみだ。
上毛かるた大会では同じチームだった。活発で頭もいい。
公立中から地元の公立トップの男子高へ、その先は地方国立大。
猫崎の祖父は萬田知事の私設秘書だった。萬田憲児が国政に打って出ると聞き、祖父が孫を秘書にと推して、県庁での仕事を2年で辞めて第二秘書になったのだ。
猫崎の他にも二人、切れ者の政策秘書とベテランの第一秘書がいるが、猫崎は執事のように私生活を全面的にサポートしている。
犠牲にしたものの多さでは、私よりも多いかもしれなかった。
「ヘッドホンをするので何も聞こえませんから」
「それでもちょっと。帰るわけには……」
「無理ですね」
話しても無駄らしい。
車は1時間半ほど走ったあと、都会の大きなビルに入っていった。
入管証のチェックのみで名前は聞かれなかった。
途中の階からエレベーターに乗り込んで来た、やけに威勢のいい男と猫崎が大げさな握手をして意味のないくどい挨拶をしているのを、他人のふりをしてやり過ごす。
「由紀子!」
部屋に入るなり、憲児が玄関まで走ってやってきて、猫崎はギョッとした表情を一瞬見せた。
「憲児さん、こんにちは」
「今日はこの後打ち合わせが一件入った、でもすぐ戻る」
「ゆっくりで大丈夫です」
「部屋で待ってて。猫崎、行くぞ」
猫崎は部屋を出ていく前に、冷たく一瞥した。
「由紀子は小さくて覚えてないと思うけど、俺の母親は高校3年の時に交通事故で死んだ。葬式が終わって、お骨を家に連れて帰った。家にはまだ親せきやら何やら、とにかくたくさんの人がいて、急に息が苦しくなった。何もかもが、線香臭いのも嫌になって、縁側から庭に出た」
憲児は布団の中で私の手を握り、肩に額を押し付けた。
「芝先生がそこにいたんだ。葬儀に来ていたのに気がつかなかった。『憲児くん、大丈夫かい』それまで誰も大丈夫かと聞かなかった。俺は『はい』と答えた。先生は『そうか、よく頑張ってる』と言って肩に手を回して、こんなふうに……」憲児は腕枕をするように、私の肩に手を回して抱きしめた。
「先生にしがみついて泣き疲れるまで泣いた。今でも、先生に会いたいと思う時がある。由紀子といると癒やされるんだ。芝先生に似てる。俺を見る目や話し方が」
「変なの」
「ハハ、今日は来てくれてありがとう。こうしてるだけでも嬉しい」
なんと言っていいかわからず、誤魔化すようにキスした。
翌朝、寝ている彼を置いて猫崎の運転する車で埼玉のコインパーキングまで戻る。
馬鹿らしいメガネを外し、ジャケットも後部座席に投げ捨てて、髪を縛った。
自分で運転して群馬まで帰る。議員会館には二度と行かない、と思う。今まで断っていたのは正解だった。
普段の歯磨きと、ちょっとしたいちゃつきだけのままごとならいいが、明け方までしつこくされたり、父の話をされたのが不快だった。父は私の不倫を決してよくは思わない。
家に帰り、風呂に入って彼の痕跡を洗い流す。風呂から出ると、インターホンが鳴った。画面には白い犬と里香。
「はい」
「由紀子さん、里香です。また歯磨きに協力してもらう事はできますか?」
「わかりました。30分後でいいですか?」
髪を乾かし化粧をして、ジーンズにTシャツを着た。
犬は私が六階に顔を出すなり、駆け出して、隠れてしまった。
「ポッポ!歯医者さんが来たわよ」里香が犬を追い回して捕まえ、バスタオルでくるんだ。
犬も包まれてしまうとあきらめて、おとなしく歯を磨かせた。
歯磨きの後、里香のいれたコーヒーを飲み、歯科医師の妻の会がこのあとあるが、歯科医院のオーナーの嫁である里香もなぜかメンバーに入っている、という話を聞く。
「歯の話したりするんですか?」
「全然!」里香と初めて世間話をして、何回か笑い、家に戻った。
罪悪感を感じない自分に焦る。
里香との会話は心地よく、犬も以前よりは心を許して、足元に寄ってきてなでろとひっくり返って腹を見せてきた。
歯科医師の妻の会は、以前母も行っていたはずだ。里香の耳にも、母が父の友人と出ていった話が入ったかもしれない。
母はもう何もかもから離れ、海のそばで暮らしている。
それが正解なのかもしれなかった。
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