[Chapter 9: 閉ざされた門]

沢の清冽な気配が背後へ遠のくにつれ、大気は急速にその濃度を変えていった。


一歩、足を踏み入れるたびに、湿った土と腐敗した花が混じり合う、粘りつくような臭気が鼻腔を突く。それは肺の深部にまで侵食し、細胞のひとつひとつを汚染していくような生理的な嫌悪感を伴っていた。唯一の拠り所であった美翅の姿は見えない。独り、闇の深淵へと回帰していく恐怖に、陽葵の膝は小刻みに、そして絶え間なく震えていた。


「……大丈夫。絶対に、悠真に会うんだ…」


震える唇から漏れた声は、重苦しい霧に吸い込まれ、一瞬でかき消された。左手首に刻まれた「穢れの刻印」が、自身の鼓動とは明らかに異なる、不規則で禍々しいリズムを刻み始めている。皮膚の下を這い回るようなその不快な熱を抑え込むように、陽葵は美翅から授かった白鞘の守り刀を強く握りしめた。柄に埋め込まれた蛍石が、彼女の切迫した決意に呼応するかのように、冷たく、だが確かな青白い光を放ち始める。


 その時だ。


前方の濃霧が、まるで生き物のように不自然な蠢きを見せた。視界の端を、質量を持った「何か」が横切る。陽葵は反射的に息を止めた。


木々の影から這い出してきたのは、かつて彼女を追い詰めたあの「ヒトガタ」だった。顔があるべき場所には何もなく、泥を捏ね上げたような滑らかな曲面に、ただ暗黒の穴が穿たれている。空虚そのものが形を成したような異形。それは一体ではなかった。左右の藪から、そして頭上の枝から、関節という概念を無視した歪な動きで、異形たちが包囲網を狭めてくる。


「あ……っ……」


悲鳴は喉の奥で凍りついた。生者を妬む呻きか、あるいは根源的な飢えを訴える啜り泣きか。重なり合う異音の濁流が、彼女の精神を削り取っていく。逃げようと後ずさるが、背後の道はすでに濃密な霧に閉ざされていた。逃げ場など、最初から存在しないのだ。


一体のヒトガタが、粘り気のある糸を引くように腕を伸ばした。冷たい指先が肩に触れようとしたその瞬間、陽葵は無意識に守り刀を抜き放っていた。


抜刀の作法も知らない、素人の無格好な一閃。しかし、刀身に宿る蛍石の光が、闇を切り裂く暴力的なまでの閃光となって奔った。


「来ないで!」


固く目を閉じ、がむしゃらに刃を振るう。手応えはない。まるで高密度の霧を薙いだような、手応えのない感覚。だが、直後に響き渡ったのは、この世のものとは思えない耳障りな絶叫だった。


目を開けると、刃が触れたヒトガタの胸元から、眩いばかりの浄化の光が溢れ出していた。異形はのたうち回り、その泥のような肉体が内側から爆発するようにして霧散していく。


飛び散ったのは血ではなかった。無数の、鮮血のような赤い花弁。彼岸花の欠片が、夜の闇に狂おしく舞い散る。


一体を退けた事実に、陽葵の胸に微かな高揚が兆した。だが、それは瞬時に凍りつくような絶望へと上書きされる。地面に落ちた花弁が、まるで見えない糸で手繰り寄せられるように蠢き、再び寄り集まり始めたのだ。崩れた泥が再構築されるように、花弁は瞬く間に一輪の彼岸花の輪郭を再生していく。


「……嘘でしょ? 倒したはずなのに……」


美翅の警告が脳裏に蘇る。――ヒトガタを殺すことはできない。その場を凌ぐことしかできないのだ。


一時的な浄化で動きを止めている間に、先へ進むしかない。陽葵は荒い呼吸を整え、次々に襲いかかる泥の手を潜り抜けながら走り出した。一歩踏み出すごとに、余計な恐怖が削ぎ落とされ、代わりに研ぎ澄まされた何かが全身を駆け巡る。


泥を斬り、花を散らす。その単調な反復の中で、陽葵の視界は以前よりも異様に鮮明になっていた。どこを斬れば相手の機先を制せるのか。どの隙間を抜ければ包囲を突破できるのか。経験したはずのない「戦闘の理」が、本能に直接書き込まれていくような、恐ろしいほどの全能感。


これは彼女自身の才能か。それとも、この地に宿る「咲那美之命」の加護が、極限状態の彼女を導いているのか。


「邪魔をしないで…私は、行かなきゃいけないの…!」


背後で再生を繰り返す異形の群れを振り切り、陽葵は山道の奥へと突き進む。その瞳から迷いは消え、代わりに冷徹な意志の炎が宿っていた。


かつて絶望に沈んでいた少女の中で、過酷な「常夜」を生き抜くための本能が、今まさに脈動し始めていた。


肺を焼くような熱気。麻痺しきった足裏。


這い上がるように山道を進む陽葵の鼻腔を、不意に、異質な芳香が衝いた。湿った土の匂いではない。それは、潮の香りと、鼻の奥を刺すような彼岸花の死臭が混ざり合った、この世ならざる気配だった。


最後の一歩を越え、視界が開けた瞬間、彼女の思考は凍りついた。


断崖の縁、虚空に突き出すようにして、そのやしろは鎮座していた。明治以前の建築様式を留めた巨大な木造建築。


その造形は、かつてこの地を支配した禍々しい伝承を、無言のうちに体現していた。


屋根を縁取る波鱗の彫刻は、今や幾星霜を経て積もった怨嗟の煤に塗り潰されている。それは神を仰ぎ見るための社などではない。底知れぬ「何か」を、永劫に繋ぎ止めておくための檻だ。


かつてこの村が記録から抹殺されたとき、神社の名もまた、禁忌の断片として人々の記憶から削り取られたという。


ここには、救いなど一片も存在しない。ただ、湧き上がる穢れを地中に押さえ込むための、冷徹な重石として、その建築物はそこに沈殿していた。


だが、そこには荘厳さなど微塵もない。長い年月と「常夜」の湿気に曝され続けた柱は、まるで腐敗した死肉のようにどす黒く変色している。


何より異常なのは、その立地だった。社のすぐ背後には、底の知れない漆黒の海が広がっている。鉛色の重い雲の下、砕ける波頭は獲物を引き裂く獣の牙そのものだ。潮騒というにはあまりに暴力的なその轟音は、異界の臓物が鳴らす、低く不気味な呻き声のように響いていた。


「……ここが、最深部……」


震える唇から漏れた呟きは、風にかき消された。陽葵は吸い寄せられるように正面の楼門へと歩み寄る。だが、そこで彼女を待ち受けていたのは、劣悪なまでの絶望だった。


かつて参拝者を迎え入れたであろう巨大な門は、今や赤黒い「いばら」によって完全に封鎖されていた。否――それは植物と呼ぶにはあまりに生々しい。異常に肥大化した彼岸花の茎が、大蛇のようにのたうち、絡み合っているのだ。びっしりと生えた棘のような突起は、侵入を許さぬ拒絶の意思そのもの。隙間一つなく閉ざされた門の奥から覗く闇は、村のどの場所よりも濃密で、冷たかった。


「どいて……お願い……」


祈るような思いで、美翅から託された白鞘の守り刀を抜く。柄に埋め込まれた「蛍石」が、主の焦燥に呼応するように、青白い光を放ちながら明滅した。


絶望という名の闇が周囲を侵蝕していくなか、その消え入りそうな光だけが、彼女をかろうじて「正気」という名の岸辺に繋ぎ止めているのくさびだった。


陽葵は意を決し、脈動する茎へと刃を叩きつけた。浄化の力が炸裂し、鋭い火花が散る。確かな手応えとともに茎は両断され、中から粘着質な赤黒い液体が溢れ出した。


だが、希望は一瞬で反転した。切り裂かれた断面が、生き物のように蠢き、脈動を始めたのだ。肉が盛り上がるような、不快な音。時間は逆流し、傷口は見る間に塞がっていく。何度刃を振るっても、結果は同じだった。浄化の光が通り過ぎた端から、その「穢れ」はより強固に、より太く増殖し、陽葵を嘲笑うかのように門を閉ざしていく。


「そんな……嘘でしょ……」


守り刀を握る手が、小刻みに震える。物理的な破壊も、石の浄化も、この肥大化した拒絶の前では無力だった。


陽葵は周囲を仰ぎ見た。左右は切り立った絶壁。その下には、ただ荒れ狂う黒い海。一歩足を踏み外せば、二度と浮き上がることは叶わないだろう。潮風が、左手首に刻まれた「穢れの刻印」を冷たく撫で、鋭い痛みが走った。――お前の行く先など、どこにもない。闇そのものがそう嘲笑っているかのようだった。


悠真はこの先にいる。直感が、血の滲むような確信がそう告げているのに、指先一つ届かない。陽葵は門に背を預け、ずるずるとその場に崩れ落ちた。


「……美翅さん」


今の自分では、この門の「理」を理解することさえできない。どうにか突破しようと手は尽くしたが、このいばらという障害に絡め取られ、そのうち精神まで吸い尽くされてしまうだろう。


悔しさに唇を噛み締め、陽葵は再び立ち上がった。一度、あの幻想的な沢へ戻らなければならない。美翅の知恵を借りなければ、この絶望の壁を越える術は見つからないだろう。


陽葵は、再生を終えて再び静まり返った巨大な門を一度だけ振り返り、重い足取りで来た道を戻り始めた。

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