[Chapter 10: 闇に浮かぶ篝火]

森の深奥。

絡みつく蔦と、肺の奥まで侵食するような湿った腐葉土の臭い。

陽葵(ひまり)は、狂おしいほどに激しくなる鼓動をなだめながら、ただ必死に突き進んでいた。


視界を遮るのは、意志を宿したかのような深い霧。

それは粘りつく重力を伴って彼女の足首にまとわりつき、一歩ごとに生気を吸い上げていく。

闇の深淵へと消えた悠真(ゆうま)の背中。

それを追うことだけが、彼女をこの場に繋ぎ止める唯一の、そしてあまりに細い糸だった。


不意に、視界を塞いでいた枝葉の圧迫が消えた。

弾けるように開けた空間に、陽葵は言葉を失う。


「……っ、あ……」


喉の奥から、乾いた吐息が漏れた。

そこには、現代の日本――ましてや東北の山深い静寂のなかに存在するはずのない光景が、剥き出しのまま横たわっていた。


闇を切り裂くように点在する、鉄製の三脚に支えられた篝火(かがりび)の列。

赤黒い炎が爆ぜるたび、周囲は不気味な朱色に染まり、影が生き物のように蠢く。

照らし出されたのは、時代という概念を置き去りにしたかのような、黒ずんだ木造建築の群れだった。


家々は風雨に晒され、腐食した骨組みを晒している。

低く軒を連ねる茅葺きや板葺きの屋根。

ところどころ剥落した土壁。

そこには電柱も、アスファルトも、自動販売機の無機質な光すらも存在しない。

明治、あるいはそれ以前の時間が、何らかの圧倒的な力によって凍結され、この地に置き去りにされた。

「タイムスリップ」という言葉が、これほどまでにしっくりとくる場所を、彼女は他に知らなかった。


陽葵は泥に汚れたスニーカーで、剥き出しの土を慎重に踏みしめた。

ザリッ、という乾いた音が、鼓膜を直接叩くほど暴力的な音量で響き渡る。


「……誰か、いませんか?」


震える声で呼びかけても、答えは返らない。

だが、ある家の窓には、行灯のような淡い光が内側から灯っている。

軒下には洗濯物が揺れ、井戸の傍らには湿った手桶が置かれている。

つい数秒前まで、誰かがそこにいたという確かな、そしてあまりに生々しい「生活の痕跡」。


しかし、そこには決定的な欠落があった。


音が、ないのだ。


篝火が爆ぜる音以外、生命の気配が一切絶たれている。

秋の虫の音も、森を支配する梟の鳴き声も、風が木々を揺らす摩擦音さえも。

この村の境界線を越えた瞬間、あらゆる波動が真空に吸い込まれたかのように消失していた。


陽葵は、自分の呼吸音が耳障りなノイズに感じるほどの静寂に、底知れぬ恐怖を覚えた。


「悠真……悠真、いるの?」


「絶対に、一人にはさせないから……」


その言葉を、彼女は呪文のように繰り返した。

震えが止まらない。

自らの声だけが、崩れゆく精神を繋ぎ止める唯一の命綱だった。


かつて、得体の知れない不安に蝕まれていた自分を、悠真は救い出してくれた。

暗闇の底で、ただ絶望に震えるしかなかったあの日。

差し伸べられた彼の掌が、どれほど温かかったか。


今度は、私の番だ。


恐怖に支配され、感覚を失いかけた両足に、渾身の力を込める。

纏わりつくような、粘膜質な沈黙――。

死を予感させる幽霊のような静寂の中に、彼女は逃れようのない決意という名の楔を、深く、鋭く打ち込んだ。



再び紡いだ名は、霧に溶けるように霧散する。

窓から漏れる光の向こうに、人影はない。

障子に揺らめく影は、ただの火の悪戯に過ぎなかった。

生活感に溢れながら、生物の拍動が完全に途絶している矛盾。

村全体が巨大な剥製へと成り果てたような、死の静寂。


(ここは、来てはいけない場所だ……)


脳の深部で、本能が警鐘を鳴らし続けていた。

この土地に伝わる、禁忌として調べた「禁足地」の伝承。

神が隠れ、あるいは死者が留まるために用意された、現世(うつしよ)の理が通用しない領域。


ふと、胸元の簪(かんざし)が、皮膚を通して微かな熱を伝えてきた。

母から譲り受けた、彼岸花の簪。

その花弁の首元から垂れ下がる、古ぼけて輝きを失っていたはずの石が、いまや内側から鈍い脈動を放っている。

それは炎の反射ではない。

それ自体が意志を持つかのように、一定のリズムで明滅を繰り返していた。


「……行かなきゃ。あの中に、悠真がいるかもしれない」


陽葵は震える指先で簪に触れ、その熱を無理やり勇気に転換しようと試みる。


村の奥へと足を進めるほどに、「穢れ」の濃度は増していく。

霧は薄墨を流したような色に変じ、古い家屋の隙間から、何者かの視線が突き刺さる。

それは明確な敵対心というよりは、見世物を眺めるような、純粋で醜悪な「観察者」の眼差しのようなものだ。


村の中央。

道の先に、ひと際大きな篝火が焚かれている場所があった。

そこには、周囲の家屋とは一線を画す荘厳な門が、口を開けて待っていた。


吸い寄せられるように、彼女の足がそちらを向く。

その時。


背後で、パチリ、と篝火が大きく爆ぜた。

それを合図にしたかのように、村のどこかで――。


カラン。


乾いた木片の音が、一つだけ響いた。


陽葵は息を止め、振り返る。

だが、そこには闇に沈みゆく無人の通りが伸びているだけだった。


「……誰?」


返事はない。

ただ、彼女が視線を正面に戻そうとしたその刹那。

先ほどまで無人だったはずの、ある一軒の窓に、こちらを見つめる真っ白な「面影」が張り付いていたような気がした。


陽葵の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜ける。


ここは潮鳴村(しおなりむら)。

明治の公式記録から完全に抹消された、常夜の地。


彼女はいま、戻ることのできない境界線を、決定的に踏み越えてしまったのだ。

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