[Chapter 5: 闇に浮かぶ篝火]
森の深奥。絡みつく蔦と、肺の奥まで侵食するような湿った腐葉土の臭い。陽葵は、激しくなる鼓動をなだめながら、ただ必死に突き進んでいた。
視界を遮るのは、意志を宿したかのような深い霧。それは粘りつく重力を伴って彼女の足首にまとわりつき、一歩ごとに生気を吸い上げていく。闇の深淵へと消えた悠真の背中。それを追うことだけが、彼女をこの場に繋ぎ止める唯一の、そしてあまりに細い糸だった。
不意に、視界を塞いでいた枝葉の圧迫が消えた。弾けるように開けた空間に、陽葵は言葉を失う。
「……っ、あ……」
喉の奥から、乾いた吐息が漏れた。そこには、現代の日本――ましてや現代の山深い静寂のなかに存在するはずのない光景が、剥き出しのまま横たわっていた。
闇を切り裂くように点在する、鉄製の三脚に支えられた
家々は風雨に晒され、腐食した骨組みを晒している。低く軒を連ねる茅葺きや板葺きの屋根。ところどころ剥落した土壁。そこには電柱も、アスファルトも、自動販売機の無機質な光すらも存在しない。明治、あるいはそれ以前の時間が、何らかの圧倒的な力によって凍結され、この地に置き去りにされた。「タイムスリップ」という言葉が、これほどまでにしっくりとくる光景を、彼女は他に知らなかった。
陽葵は泥に汚れたスニーカーで、剥き出しの土を慎重に踏みしめた。ザリッ、という乾いた音が、鼓膜を直接叩くほど暴力的な音量で響き渡る。
「……誰か、いませんか?」
震える声で呼びかけても、答えは返らない。だが、ある家の窓には、行灯のような淡い光が内側から灯っている。軒下には洗濯物が揺れ、井戸の傍らには湿った手桶が置かれている。つい数秒前まで、誰かがそこにいたという確かな、そしてあまりに生々しい「生活の痕跡」。
しかし、そこには決定的な欠落があった。
音が、ないのだ。
篝火が爆ぜる音以外、生命の気配が一切絶たれている。秋の虫の音も、森を支配する梟の鳴き声も、風が木々を揺らす摩擦音さえも。この村の境界線を越えた瞬間、あらゆる波動が真空に吸い込まれたかのように消失していた。
陽葵は、自分の呼吸音が耳障りなノイズに感じるほどの静寂に、底知れぬ恐怖を覚えた。
「悠真……悠真、いるの?」
震えが止まらない。自らの声だけが、崩れそうになる精神を繋ぎ止めるか細い命綱だった。
かつて、得体の知れない不安に蝕まれていた自分を、悠真は救い出してくれた。暗闇の底で、ただ絶望に震えるしかなかったあの日。差し伸べられた彼の掌が、どれほど温かかったか。
今度は、私の番だ。
恐怖に支配され、感覚を失いかけた両足に、渾身の力を込める。纏わりつくような、粘膜質な沈黙――。死を予感させる幽霊のような静寂の中に、彼女は逃れようのない決意という名の楔を、深く、鋭く打ち込んだ。
窓から漏れる光の向こうに、人影はない。障子に揺らめく影は、ただの火の悪戯に過ぎなかった。生活感に溢れながら、生物の拍動が完全に途絶している矛盾。村全体が巨大な剥製へと成り果てたような、死の静寂。
(ここは、来てはいけない場所だ……)
脳の深部で、本能が警鐘を鳴らし続けていた。この土地に伝わる、禁忌として調べた「禁足地」の伝承。神が隠れ、あるいは死者が留まるために用意された、
「……行かなきゃ。あの中に、悠真がいるかもしれない」
村の奥へと足を進めるほどに、「
潮鳴村の目抜き通りと思われる場所に出た瞬間、大気の重みが変わった。そこには、時間が腐敗して凝り固まったような、歪な静寂が澱んでいた。
ただ、道端の石灯籠と軒先に吊るされた古びた提灯だけが、生き物の脈動を模すように鈍く、赤黒い光を吐き出していた。
「……あ」
網膜の端を、何かがかすめた。人工的な光を一切拒絶したこの空間で、その輪郭だけが異常な鮮明さをもって焼き付く。
見間違えるはずがない。優しさを形にしたような、なだらかな肩のライン。二年前、あの日を境に消息を絶った浅見悠真の背中だった。
彼は村のさらに奥――闇を切り裂くように聳え立つ、巨大な朱塗りの門扉の方へと歩を進めている。一定の歩調。陽葵の存在など、その意識の端にも掛かっていないかのようだった。
「待って、悠真!」
叫びは湿り気を帯びた空気に吸い込まれ、反響することもなく消失した。陽葵は迷うことなく駆け出した。
足裏から膝へ、不規則に隆起した石畳の衝撃が冷たく突き抜ける。理性の端では、これが異界の誘いであり、致命的な罠である可能性を叫ぶ声が聞こえていた。
だが、胸の奥で暴れる「彼に会いたい」という飢餓感にも似た情念が、それらすべての警告を塗りつぶしていく。たとえこの先に待つのが死であっても、そこに彼がいるのなら構わない。生理的な恐怖を凌駕する衝動が、彼女の肢体を突き動かしていた。
走り抜ける陽葵の頬を、生温かい風が撫でる。その風には、どこか腐敗した花の香りが混じっていた。
通り過ぎる家々の影から、ねっとりとした視線の触手が絡みつく。格子窓の隙間、あるいは屋根瓦の重なり。死角という死角から、無数の「何か」が自分を凝視しているような錯覚。
振り返れば、そこには誰もいない。ただ、古びた家屋が沈黙を守っているだけだ。
それでも、背筋を這い上がる悪寒は消えなかった。この村全体が、自分という異物を咀嚼しようと待ち構えている巨大な
(……あんなに、遠かったっけ)
必死に足を動かしているのに、悠真との距離が縮まらない。それどころか、彼の背中は追えば追うほど遠ざかっていく。
かつての彼は、いつだって陽葵の歩幅に合わせてくれた。振り返って、安心させるような微笑みを向けてくれた。
しかし、今、目の前を歩く彼の背後には、かつての包容力は欠片も残っていない。漂っているのは、生き物としての根源的な違いを象徴するような、冷たく無機質な気配だけだった。
巨大な門が近づくにつれ、空気の「重圧」は物理的な濃度を増していった。視界を遮る霧が、実体を持った泥のように肺胞へ入り込み、呼吸を阻害する。
心臓が早鐘を打ち、肺が悲鳴を上げる。それでも、陽葵は目を逸らさない。
視線の先で揺れる悠真の幻影だけを唯一の道標として、彼女は無人の村を駆け抜けていく。
その先に待ち受けるのが救済か、それとも完全なる破滅か。今の陽葵には、それを確かめる術も、立ち止まる勇気もなかった。
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